ボヘミアの海岸線

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『別荘』ホセ・ドノソ|分厚いベールをかける黄金の白痴

 「私たちはベントゥーラ一族なのよ、ウェンセスラオ、唯一確かなのは外見だけ、よく覚えておきなさい」——ホセ・ドノソ『別荘』

分厚いベールをかける黄金の白痴

 ドノソはわたしにとって「液体作家」である。読んだ後になぜか液体じみた印象が離れない。きちがい冥府小説『夜のみだらな鳥』は、どろどろの黒いタールの上に、蛍光色の砂糖菓子人形をぶちまけたような印象。『別荘』は赤緑黄のペンキ缶を壁に投げつけ、金銀の粉をふりかけて血みどろメレンゲをあしらった印象だ。

 端的にいえば、いかれている。頭のおかしい人々がロココにほほえみながら舞踏会を踊り、わたしたち読者に「あなたも踊りましょう?」と優雅に指を絡めてくるような作品をドノソは描く。圧倒的な理性の敗北、幼児退化のばぶばぶ、無知蒙昧のグロテスク、なのにそれでも西洋絵画のように美しいのだからやっていられない。

別荘 (ロス・クラシコス)

別荘 (ロス・クラシコス)

 「きっと今日は誰もが取り返しのつかないことをするんだ」

 お金持ちのベントゥーラ一族が、夏に一族の別荘におでかけしてハイキングする物語である。
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Emile Claus"Le Pique-nique",1887.

 まちがってもこのような牧歌的な雰囲気にならないのがドノソであり、この絵画は、ほかの植物すべてを絶滅させて屋敷一体をおおいつくすプラチナ色の怪植物グラミネア、33人のいとこたち、まったく無能でなにもできない親たち、つねに下克上をねらう召使い、土地を奪われた原住民、人食い人種、一族の富をつくった金塊、近親相姦のはてにうまれた赤んぼう、子殺しと兄弟殺し、吹き出す鮮血に侵食される。

 不穏、すべてが不穏だ。親たちは退屈をまぎらわすために、うるさくわんぱくな33人のいとこたちを別荘に置いて、遠くの景勝地へ1日のハイキングにでかける。だが、この1日はすべての秩序をぶち壊すのに決定的な1日だった。子供たち、召使いたち、子殺しの狂人として塔に閉じ込められていたよそ者の婿、屋敷の外に住む原住民たちがここぞとばかりに家をあさり、金庫をこじあけて金粉まみれになって遊び、いとこ同士でセックスし、「侯爵夫人は五時に出発した」という奇怪ななりきり遊びにふける。

 今望むことといえば、しばらく両親の目を逃れて、この別荘で起こることのすべてを「侯爵夫人は五時に出発した」の作り話に変え、まだなりたくもない大人に仕立てようと迫りくる現実を避けることだけだ。

 彼がすぐに気づいたとおり、ベントゥーラ家第一の掟は、物事に直接向き合わないこと、生活のすべてを暗示、儀礼、象徴として理解することであり、そうしていれば、いとこ同士の間ですら質問や返答をしなくてすむようになる。物事に直接言及することなくすべてを受け入れているかぎり、何をしても、感じても、望んでもかまわない。

 組織はその頭を失えば無秩序に陥るというが、「大人たち」という絶対権力者を失ったおかげで、別荘は哄笑が響く混沌へと転落する。「別荘の外」にある恐ろしいものから一族を守っていた「境界」が内側から壊されたとき、まばゆい黄金の白痴ベントゥーラに向かって、プラチナの綿毛と褐色の肌が進撃する。

 「仮にハイキングから戻ってくればの話だけどね。帰ってくるかどうかすら怪しいものさ」


 この別荘においては、定量的な時間すら把握できない。この反乱が1日なのか1年なのかで皆がもめている始末である。たかが1日。されど1年。自分の立場にとって都合のいい時間の流れをそれぞれが「選択」しようとする。ここには、政治的なプロパガンダがほの見える。

 「『侯爵夫人は五時に出発した』では、一時間を一年と計算することがよくあるのよ」

 「この別荘には時間の経過など存在しないのだ。ハイキングに出発して以来、時間は止まっている。ご主人様たちが帰還される前に時間が動き出すことなどありえない!」

 「……これより先、一か月であれ、一週間、一日、数日であれ、一分一秒であれ、故意であれ、不意であれ、時の経過について話すことは反逆罪とする」「屋敷内にあるすべての時計、カレンダー、タイマー、振り子、水時計、メトロノーム、日時計、砂時計、年俸、予定表、太陽暦、太陰暦を没収しろ!……」

 
 どうしてそんなに盛ったのかととまどうほどの寓意、皮肉、ほのめかしの嵐であり、誰もがなにかを読み取っては語りたくなるらしい。大人vs.子供、搾取する側vs.搾取される側、権力下の安全圏vs.恐ろしい外部といった対立構造、「侯爵夫人は五時に出発した」という遊びの意味、「人食い人種は誰か」という問題、黄金と槍が示す宗教的寓意、「これはドノソの故国、チリの政権交代そのものだ」という指摘。本書にたいする論考や論文が大量にあるという話もうなずける。

 だが、この物語はおそらくそんな精緻な読みを期待していないような気がする。わたしはブラックユーモアを愛する快楽主義者なので、わりと大笑いしながらこのカオスを堪能した。

 「わたしたちはベントゥーラ、唯一確かなのは外見だけ」とその無能ぶりを誇る大人世代、「この騒ぎはいったいなんだい? 僕みたいな4歳児は少なくとも12時間は寝なくちゃならないというのに」などとありえないセリフを平気で放つ子供たち。屋敷を守る槍を抜き、その中でもとくに完璧で美しい槍に「メラニア」と恋する従姉の名前をつけて愛でる少年。性欲が強すぎる夫にうんざりして「姪のあの子が夫の性欲を受けとめてくれればいいのに」と思い、夫と姪を不倫・近親相姦の道にはしらせようとする女。ごまかして追跡の目を逃れるためにバレエを踊る少年。籠城戦で肉がなくなってきたので人肉食いを勧めるコック。誰も彼もがいかれている。

「べたべたするんじゃない! お前たちはオカマじゃないんだ。わかるか? ここでオカマは俺だけだ」

「イヒニオにはパトスがない……イヒニオにはパトスがない……」

 「しかし、ここではまったく何も起こっていませんのよ!」


 グラミネア、グラミネア! この小説はまさにグラミネアそのものに見える。かつて肥沃だった土壌をすべて食らいつくし、爆発的に繁殖し、ほかの植物すべてを絶滅させたグラミネア。秋になると窒息するほどの死の綿毛を吐き、白い冬に到達するグラミネア。黄金の富と名誉にかがやくベントゥーラの金色をとりかこむ、プラチナ色をした不毛の月面、グラミネア。

 もはやベントゥーラ家が、人間の形をしたグラミネアであるような気さえする。愛の不毛地帯、精神の月面、他人の黄金を食らって育った怪物だからだ。「物事に直接向き合わない」というベントゥーラ一族の黄金の掟にしたがって、すべては分厚いベールをかけられる。本当のこと、本当の心は、永遠にプラチナ色の綿毛の彼方へ葬られる。

 これほど人間性が不毛でありながら、ベントゥーラの金とグラミネアの銀にかがやく世界はすばらしく絵画的で美しい。とくに最後のシーンは、映画のようで本当に惚れぼれしてしまった。


 『夜のみだらな鳥』でもそうだったが、ドノソは人間を「このいかれた世界の装飾品」と見なしている節があるように見える。ドノソ作品の登場人物は皆、人間の形をしているが人間ではないなにか、ぶっ壊れてしまった人間ばかりであり、共感して寄り添おうとする人間の心を容赦なくたたきのめす。

 ドノソの小説を読んでいると、こう考えずにはいられない——。われわれは壁に描かれた騙し絵のような存在、金メッキをほどこされた彫像のようなもので、ときおり三次元で遊んでいるだけにすぎないのではないか? いつか時がくれば二次元へと戻り、消えていく存在にすぎないのではないか?

 人間の尊厳を優雅な手さばきで打ち砕いて、その屍に美しい絵画装飾をほどこすドノソは、精神のネクロマンサー、ロココ派の死体装飾家のようなものかもしれない。おかげでいつもドノソを読む時は風邪をひくのだった。

 芸術家にとってより重要なのは、むしろ子供たちと周囲の相互作用であり、岩と谷と樹々に始まって地平線まで続く光景が、金色を帯びながら、美しく、感動的に、そっと空から離れていくにつれ、そこに心地よい非現実的空間が出来上がって、最終的に絵の主人公となる。同じように、小説においても、実は純粋な語りこそが主人公なのであり、最終的には迸るこの一連の言葉の波が、登場人物、時間、空間、進学、社会学を打ち砕いていく。

 主人公たちは去った。その後、召使の列も去ってドアが締められると、騙し絵に描かれた人間たちが感性やウィンクを交わしながらお祭り騒ぎを繰り広げ、そのおかげですべてはまた二次元の世界へと戻っていった。

ホセ・ドノソの作品レビュー


これぞドノソの真骨頂。『別荘』が中ドノソだとしたら『夜みだ』は圧倒的な大ドノソである。近々、復刊予定なので楽しみに待つべし。

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Carol of the Old Ones Sub Esp. - YouTube
本書のBGM曲。邦題は「旧支配者のキャロル」。実際に旧支配者がいたわけだし「窓に! 窓に!」みたいなシーンもあるのでちょうどいい感じ。スペイン語訳の絵がかわいかったので、南米の雰囲気を味わいたい人に。A Very Very Very Scary Solstice!



José Donoso "Casa de campo", 1978.