外に5日間いて、ぼくは生きることへの興味を失った。ある詩人が言っているよ。『生きる? 生きるだと? なんだ、それは? そんなことは召使にやらせておけ』って。ーーホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』
楽園という名の冥府
『夜のみだらな鳥』を読んでいる最中、定期的に悪夢を見た。夢はだいたい極彩色のトリップしたしろもので、どろっどろの黒いタールの上に、蛍光色をした砂糖菓子の人形をぶちまけたようなイメージ。それらが溶け崩れてぐるぐる混ざって、私は濁流の中へ飲まれていく。本書の中身を抽象化したらきっとこんな感じになるだろう。やるな、私の悪夢ども。
この物語では、舞台はほとんど動かない。語り手のムディートが隠れる「修道院」と、ムディートがかつてウンベルト・ペニャローサだったころに管理していた「楽園」リンコナーダ。どちらも日常世界とは隔絶していて、中ではぶっ飛んだ乱痴気騒ぎが繰り広げられている。修道院では、妊娠した少女を老婆たちが「処女懐胎だわ! 奇跡だわ!」といって祭りあげ、臭い息を吐き散らしながらバブバブ赤ちゃんごっこ。リンコナーダでは、畸形たちがごろごろゲラゲラ、いかれたパーティーを繰り広げる。むき出しになった百貫デブの女の乳房に大勢の小人が這いあがってお乳を吸ったり、せむしの男たちがこぞって尻に噛みついたり、誰もかれもが抱き合ったり。
壮絶である。2段組で400ページ超、気が狂いそうな描写がえんえんと続く。
なんというおぞましさ。なんという冥府。だが、そんな私をよそに畸形たちは哄笑する。ばかめ! われわれこそが世界なのだと。
このいかれた世界には、「所有者」が存在する。美しい姿に財産と名誉を持つ、絵に描いたようないい男、ドン・ヘロニモ。だが、不能である。いや、ドン・ヘロニモが不能かそうでないかは実のところ分かっていないのだが、どうにかなって念願の嫡子<ボーイ>が生まれる(本書には確かなことなんてなんにもない)。ドン・ヘロニモが、<ボーイ>と念願の対面を果たす場面は衝撃的である。ここまで嫌な赤ちゃんの描写は、ちょっと見たことがない。
ドン・ヘロニモ・デ・アスコイティアは、いっそこの場で殺したほうが、と思った。瘤の上でブドウ蔓のようにねじれ醜悪極まりない胴体。深い溝が走っている顔面。白い骨と赤い線の入り乱れた組織とがみだりがわしくむき出しになった唇、口蓋、鼻……それは混沌あるいは無秩序そのものであり、死がとった別の形、最悪の形だった。
悪夢のような息子の姿に、父は悪夢のようなおぞましい考えでもって応えた。美しさと完璧を求めるいい男ドン・ヘロニモが金と権力を使って作ったものが、「畸形の楽園」リンコナーダであったことの皮肉ぶりがすさまじい。
楽園の庭には畸形の銅像が立ち、医者も神父もすべて畸形の者ばかり。<ボーイ>にとっては、それが世界、それが普通、それが日常となる。異常が集まって多数派になれば、それがスタンダードだ。「五体満足な人間こそが異常」なのであり、すべての価値観は逆転する。
人工の「秩序」を生み出そうとするドン・ヘロニモは、ある意味で「神」の領域に手を伸ばそうとしたともいえる。もっとも、その不完全な砂糖菓子の城は、狂気の熱で溶けくずれ、目をむけることすらできないほど醜い代物ではあるが。
このとち狂った物語においては、何も信じられるものがない。「おれ」の独白と姿はころころ変わるし、魔女と聖女の伝説やら、身体の7割をけずる臓器売買やら、娼婦の処女懐胎やら、何もかもが異常すぎる。
一番狂っていたのは誰だったのだろう? ドン・ヘロニモに嫉妬し、勃起不全と破滅を望んだ「おれ」か? 魔女伝説と聖女伝説に取りつかれた、ドン・ヘロニモの美しい妻イネスか? 金にものを言わせてリンコナーダを作り上げたドン・ヘロニモか?
まっとうな人間が誰ひとりとしていない。冥府はどこまでも閉じていて、救いがない。だから、この冥府はあのようになるしかなかったのだろう。成長した<ボーイ>が「ぼくの冥府さえ維持してくれればいい。ぼくは人為的な世界にしか興味がない」と言い放った後のくだりは、圧巻の一言に尽きる。
ああ、私はいつか気が狂うかもしれないと思いながら、最後まで読んでしまった。最高かと聞かれたら、ちょっと答えにつまる。でも、比類ないことだけは間違いない。
人生は道化芝居ではないし、お上品な喜劇でもない。……すべての人間が生まれながらに受け継いでいるのは、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森なのだ。
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Jose Donoso El Obsceno Pajaro de la Noche,1970.