ボヘミアの海岸線

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『調書』ル・クレジオ

[透徹した省察]
Jean-Marie Gustave Le Clézio Le Procès-verbal, 1963.

調書

調書

大地はオレンジのように青い。


 2008年ノーベル賞作家 クレジオの、23歳時の処女作。
 軍隊から出てきたのか、それとも精神病院からなのかよくわかっていなかった男の話。著者いわく、「仮に小説の主人公が最後の章で死ぬか、そこまで行かなくても、パーキンソン氏病に冒されでもしたら、悪口雑言に充ちた無署名の手紙の洪水が私を襲う、そんな小説をいつの日か書くこと」。


 読み手を選ぶタイプの本だと思う。手からこぼれ落ちるような話だった。主人公アダム・ポロが、裸で日がな一日日向ぼっこをして、いろんなところをふらふら回り、たまに手紙を書いたりするという、それだけの話である。読むのを、何度挫折したかしれない。ちっともなじめないのだが、それがこの本のスタイルなのかなと思った。あえて、なじませようとしないこと。

 なんでこう感じたかというと、世界をどう見るかという視点、重点の置き方が違うからなのだと思う。世界の中心に自分がいて、そこから自分の世界を構築する人がいる。一方で、広大な世界の中に放り出されて、絶えず世界と自分を対置させていこうとする人がいる。たいていの人は前者だが、アダム・ポロは後者に属している。

 アダムが世界を眺める視点は、どこか普通と違っている。ねずみを殺しながらねずみになったり、ライオンを見ながらライオンになったりする。世界との同化がある一方で、異質な世界は読み手から剥がれ落ちる。アダムの目線は、人間の境界をゆるりと越えてない交ぜにする。ない交ぜになりながら、それにうっとりするのだ。見ているこちらはうっとりできない。この本が、なじめない人にとってはなじめないまま終わるのは、たぶんここらへんなんだろうと思う。逆に、世界の見方が他者と違うと自覚している人には、世界に対する態度の「ズレ」に、かいま見るものがあるのだろう。

 精神分析やレッテルへの批判、神の不在、物語による世界の整列への抵抗、実存主義の系譜、こういったものがいろいろと展開されている本なんだろうと思う。

 おもしろいなと思ったのは、池澤夏樹氏の「アダム・ポロは僕だと思った」という発言。それはそうとうな根性がいるような気がするのだが、確かになっちゃんはアダム・ポロと同系譜上にいる気がする。(『スティル・ライフ』あたりとか)「大地はオレンジのように青い」という言葉に対して、どういう態度をとるかという話なのかなと思う。
いつか再読したい。もしくは、もっと別のクレジオの本を読むとするか。

「そういったものは何の役に立つんですか、そういう神秘主義のなには?」
「なんにも。なんにも。まったくなんにもです。」

「もうわかろうとすることなんかやめてください」


recommend :
>池澤夏樹『スティル・ライフ』…遠い世界に重点を置く男の話。
>カミュ『異邦人』・・・他者との異質さ。
ダニロ・キシュ『砂時計』…残された手紙。