『文体練習』レイモン・クノー
[文体の博覧会]
Raymond Queneau Exercices de Style 1947.
- 作者: レーモンクノー,Raymond Queneau,朝比奈弘治
- 出版社/メーカー: 朝日出版社
- 発売日: 1996/11
- メディア: 単行本
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- 作者: レーモン・クノー,松島征
- 出版社/メーカー: 水声社
- 発売日: 2012/09/22
- メディア: 単行本
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フランスのシュルレアリスム作家、クノーの文体練習小説。著者が、この本をものすごく楽しそうに書いたんだろうなという情景が、目に浮かぶような本。
クノーは、文学実験集団「ウリポ」の手本とされた作家だ。ちょっとわき道にそれるが、このウリポは、とにかく翻訳者泣かせの集団である。有名どころでは、ジョルジュ・ペレックなどがいるが、彼はフランス語で最も出現頻度が高い「e」を小説からきれいに消失させた、すさまじい小説『消失』を書いている(当然、未訳)。消失系の小説では、日本でも筒井康隆の『口紅に残像を』などがあるが、これはひらがなが1字ずつ脱落していくので(幽々白書を思い出す人は同世代)『消失』ほど強烈ではない。本書も、これまた翻訳しにくかっただろうな、としみじみ思う。
内容はいたってシンプルだ。「バスの中でぐちを言う青年がいる。2時間後にその男は連れに、コートにボタンがいるね、と言われる」という、おもしろくもなんともない数行のシーンを、99もの文体で表現する。
読んでいて、驚くやら感心するやら、大笑いするやらで、他の本ではなかなか得がたい体験ができた。著者にしても訳者にしても、才能を尽くして、馬鹿なことを大真面目にやってのけるこのユーモアがいい。「植物」とかになると、もう何がなにやら。
遊び心が好きな読書人、凝り性な読書人におすすめ。
クノーの著作レビュー:
『地下鉄のザジ』
recommend:
シュルレアリズム、ウリポ関係。
マット・マドン『コミック文体練習』・・・コミック版の文体練習。
アンドレ・ブルトン 『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』・・・宣言しました。
レーモン・ルーセル『アフリカの印象』・・・言葉遊びの作家。
アルフレッド・ジャリ『超男性』・・・ウリポのお手本となった人。
『海に住む少女』シュペルヴィエル
[霧のような寂しさに]
Jules Supervielle L'ENFANT DE LA HAUTE MER ,1931.
- 作者: シュペルヴィエル,永田千奈
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2006/10/12
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ウルグアイ生まれ、フランス育ちの作家・詩人による、「こちらの世界」と「あちらの世界」、ふたつの世界の境界を少しゆるめたような世界を描いた短編集。
シュペルヴィエルのことを、訳者は「フランスの宮沢賢治」と評しているようだ。賢治とシュペルヴィエル、どちらも幻想と静寂の世界観だが、賢治を鉱石のような静かさに例えるならば、シュペルヴィエルはどちらかというと、霧のようなあいまいな静かさがある。
表題「海に住む少女」の美しさは、とりあえず一読の価値がある。海に、浮かんでは消える町、そしてそこに住む少女の存在。最後にじんわりと余韻が残る秀作だ。
海、少女、死の向こう側、寂しさと孤独。シュペルヴィエルの描く世界は、静かな詩の色合いに満ちている。まるで水彩画のような、寂しい静寂の余韻にひたる。
recommend:
静寂の美しさ、詩人。
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』…少年と銀河、そして死。
中原中也『汚れっちまった悲しみに』…「サーカス」が好き。ゆあーんゆよーん
谷川俊太郎『二十億光年の孤独』…これもいい詩。
『脂肪の塊・テリエ館』モーパッサン
[娼婦たち]
Henri Ren〓 Albert Guy de Maupassant Boule de suif ,1884. La Maison Tellier, 1881.
- 作者: モーパッサン,青柳瑞穂
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1951/04
- メディア: 文庫
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『女の一生』などで著名な、フランスの短篇作家による中篇2篇。
題名がなかなか強烈だったので、気になってはいたけど、読むことのなかった本。両方とも娼婦の話らしいし、ましてこの名前。少し敬遠していたのだが、繊細な人間描写と、語りのうまさがあった。
「脂肪の塊」:
「ブール・ド・スイユ=脂肪の塊」、これがそもそも人の呼び名であるところにびっくりする。これは主人公である娼婦の呼び名だが、同時に彼女を蔑んでいるブルジョワ階級のことでもある。
彼らの、食べるシーンが印象的。ブルジョワは、ブール・ドースイユの持っている食事を食べ尽くし、放蕩し、人の不幸や人そのものを食い物にする。それなのに、彼女を蔑んで、弁当を欠片も分け与えない。なんとなく、「千と千尋の神隠し」の、両親がごちそうを食べながら豚になっていくシーンを思い出した。娼婦は身体が「脂肪の塊」だけど、上品な方々は心が「脂肪の塊」。
「テリエ館」:
娼婦館の明るい話。ロートレックの絵がにあう感じ。「脂肪の塊」では、娼婦はかわいそうだけど、こちらでは逆に娼婦優位で、男を手玉に取って楽しげな雰囲気。
印象的なのはやっぱり「脂肪の塊」か。いろいろインパクトが強いこともあるし。どちらもよくできた物語で、安心して読める感がある。それがモーパッサンやO・ヘンリーの短編のいいところでもあるし、飽きるところでもあるのだけれど。
recommend:
フランスの女性の物語。
- ゾラ『ナナ』・・・フランスの高級娼婦。
- フローベール『ボヴァリー夫人』・・・モーパッサンの師匠。
『けものたち・死者の時』ピエール・ガスカール
[けものと人間]
Pierre Gascar LES BETES , LE TEMPS DES MORTS , 1953.
- 作者: ピエールガスカール,Pierre Gascar,渡辺一夫,佐藤朔,二宮敬
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2007/09/14
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フランスの作家による、短編集。人とけものの短編集「けものたち」と、収容所の墓堀りに関する半自伝小説「死者の時」を収録している。
ここまで相性の合わない本をひさしぶりに読んだ。大江健三郎氏が影響を受けた、といわれるけれど、全体を包む「けものくささ」がダメだ。風邪ひいていた時に読んだから、よけい相性が悪かったのかもしれないが……。あとがきも1955年のままだし、もう少しどうにかならなかったのだろうか、岩波書店。
短編集「けものたち」の3篇、「死者の時」を読んだので、ざっくりと感想。
「けものたち」:
「人間」と「けもの」を対比させつつ、その関係性があいまいになる話が多い。戦争が大きなモチーフのひとつとしてあるから、人間の理性的でない部分、動物くさいところを出す、という感じか。「真朱な生活」は、伝統的な屠殺をする肉屋の話で、非常に血なまぐさい。「ガストン」は、その中では一番良かったかも。ねずみの話。
「死者の時」:
ゴンクール賞受賞。こちらの作品の方が読みやすかった。戦争は死と死者ばかり。
別にガスカールの文章が悪いわけではないが、人間の動物性を、動物との対比で見せるのは、今読むと古くさいように思う。ひさしぶりのはずれ、残念。
『ゴドーを待ちながら』サミュエル・ベケット
[ひますぎる]
Samuel Beckett EN ATTENDANT GODOT 1952.
- 作者: サミュエルベケット,安堂信也,高橋康也
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2008/12/26
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「もう行こう」
「だめだ」
「なぜさ?」
「ゴドーを待つのさ」
「ああ、そうか」
2人のおじさんが、ただひたすらゴドーを待つ、待ちぼうけの悲喜劇。ベケットは、アイルランド出身のフランス語作家である。彼は『ゴドー』をフランス語で書いた。
ぷーたろうのおじさんたち、ウラディミールとエストラゴンの会話の、ぐだぐだのナンセンスっぷりがすばらしい。ポッツォとラッキーの謎の二人も掛け合いもおもしろい。暇つぶしのために、首をくくってみようとしたり、帽子を高速で取り替える遊びをしたり、片っ端から言うことなすこと忘れたり、転んだら起き上がれなかったりする。動くと言って動かない、しょっちゅう「沈黙」が入るところなんかは、なんだか、ファミレスで時間をつぶす時とそっくりだ。
ゴドー=ゴッド説もあるらしいが、別にそんなことはどうでもいいような気がする。たぶん「ゴドー」は、深読みできそうでできない、というか、すれば徒労に終わりそうな作品だ。作品に何か明確な意味を求めたい人や、まじめな気質の人と本作は、すごく相性が悪いだろうと思う。
だけどたぶん、長期的な目で見れば、人生はこんなものかもしれない。ひまをつぶすため、待つために、一見合理的に見えるけれど、習慣となっている挙動を繰り返すばかり。そして待っているはずのものは来ない。
「われわれは退屈しきっている」
「われわれが現在ここで何をすべきか。この広大なる混沌の中で明らかなことはただひとつ、すなわち、われわれはゴドーの来るのを待っているということだけだ」
人生は浮き沈みを繰り返す暇つぶしで、内容などありはしない。ものすごく現代らしい作品だ。これは本当におもしろかった。
recommend:
待ちぼうけ小説。
ブッツァーティ『タタール人の砂漠』・・・タタール人を待ち続ける。
J.M.クッツェー『夷狄を待ちながら』・・・夷狄を待ち続ける。
『東方綺譚』ユルスナール
[東洋の青]
Yourcenar Marguerite NOUVELLE ORIENTALES , 1983.
- 作者: マルグリット・ユルスナール,多田智満子
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 1984/12
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ベルギー生まれのフランスの小説家による、異国情緒短編集。
この本には、「異国情緒」という言葉がぴったり似合う。中国、ギリシア、バルカン、ヒンズー教、イスラム教、そして日本。いわゆる「西方」から見た「東方」、だけど私たち東洋人も、この「東方」を知らない。実際、日本が舞台で、源氏が主人公の物語もあるのだが、どこか別の国の物語のように感じる。誰もが知っていそうで、誰もが知らない、そんな架空の異国の物語。
この作品ですばらしいと思うのは、東方の持つ湿気というか、水の気配を含む、青い空気感を描き出しているところだ。まるで、宝石が水底で時折瞬くような、極彩色が揺らめいている雰囲気。文章と、そこに描き出される空気が見事なまでに美しい。
絵画のようで、息を飲む。
「老絵師の行方」は、だんとつで好きな作品。日本で読むのならば、「源氏の君の最後の恋」もぜひ。
極上の架空の世界の空気感に、ひたひたと、ひたる。
recommend:
西洋の作家が描く異国編。
マルグリッド・ユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』 ・・・極上のスタンダード
アナトゥール・フランス『舞姫タイス』 ・・・古代エジプトの修道士の話
ロレンス・ダレル『アレクサンドリア四重奏』 ・・・エジプト・アレクサンドリアと恋
『マダム・エドワルダ/目玉の話』ジョルジュ・バタイユ
[裸であることの不安]
Georges Albert Maurice Victor Bataille MADAME EDWARDA ,1941. HISTOIRE DE L'OEIL ,1928.
- 作者: バタイユ,中条省平
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2006/09/07
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きみはひとりぼっちか? 寒けがしているか? きみは知っているか、人間がどこまで「きみ自身」であるか? どこまで愚かであるか? そしてどこまで裸であるか?
かつて生田耕作訳『眼球譚』で名を馳せた、バタイユによる「目玉の話」。
冒頭の問いかけは、まさにバタイユだと思う。わかるのか、君には?わかってくれなくてもかまわない。「ともかく私は、人が私の悲しみを笑ってくれればそれで満足なのだ」(本文より)。そんな作家である。
スキャンダラス、変態、エロティシズム。バタイユを語る言葉はいろいろあるけれど、バタイユの作品に理性的な批評など、つまらない。「死」と「エロス」が一本の道になって、「不安」がまっ裸で、叫びながらそこを走っている感じ。もっと感覚的・直感的なもので、それにうまくのれなければ、バタイユはただのポルノになってしまうだろうと思う。
みんなが当たり前に服を着ている現実に、自分だけ裸でいるような不安。なじめない、戻れない、だけど服を着ることは自分にとってひどく難しい。そんな不安と孤独が、両作品の中に流れているように思える。
「マダム・エドワルダ」:
『高い門の下で、私はうめきながら笑っていた。
「このアーチの虚無を通り抜けるものだけが!」
わりとハードボイルドな雰囲気。自分の裸をさらけ出すエトワルダ、「わたしは神よ」と言い、「私」も彼女を神だと思う。娼婦マダム・エトワルダと「私」が、暗い夜の中、裸で追いかけっこをする。やっぱり、あらすじだけ書くとなんかつまらない。でも、硬質な美しさがある。空っぽな夜の空と、星と虚空のイメージ。
「目玉の話」:
きちんと衣服を着た人々が生きる現実の世界ははるかに遠く、もう二度とそこに戻れないような気さえしました。
もう少しエログロな雰囲気の作品。これは変態系。読めても、同じことをやれっていわれたら絶対無理だ。玉子や目玉を……いえ、何でもありません。「私」と彼女「シモーヌ」が、裸で自転車に乗っているシーンが、シュールだけど、なんかきれい。
両作品とも、筋が一本通った狂いっぷりがいい。さらけ出して、暴かれるようで、しばらく妙な余韻が残る。
recommend:
セリーヌ『夜の果てへの旅』 (さらけ出す不安)
アンドレ・ピエール ド・マンディアルグ『城の中のイギリス人』 (エロ・グロ)
マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』 (サドはサド)
『編集室』ロジェ・グルニエ
[記者の話]
Roger Grenier LA SALLE FR REDACTION , 1977.
- 作者: ロジェグルニエ,Roger Grenier,須藤哲生
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2002/08
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……一種メロディーに似た思い出を抱きつづけている。そう、つねにまた旅立つ勇気を与えてくれた、なにものかの思い出を。
フランスの短編作家による、編集者の物語。
ある記者が、夜の編集室で、一人でかたかたとタイピングする。かつて「夜の寓話」という題で出版されたこの本は、そんな光景を想像させる。
ジャーナリストが小説家になるのはわりと多いが、ジャーナリストそのものを小説にしたものはあまりないのではないだろうか。もちろん、著者グルニエは記者経験がある。だけど、記者が記者時代のことを書く時、どちらかといえばルポタージュもしくは暴露話になりがちだ。
本作は、「ジャーナリストの物語」という言葉が、まさにしっくりと当てはまる。彼らの人間くささが、にじみ出ているとでもいうか。ジャーナリズム精神やスクープを追い求める仕事熱ではなく、酒一杯の息抜きや、同僚と恋の駆け引きが、ここにはある。
おすすめは「冬の旅」「親愛なる奥様……」「厄払い」「すこし色あせたブロンド女」。「記者」である人びとへの、丁寧な視線が好ましい作品。
recommend:
ガルシア・マルケス『幸福な無名時代』(マルケスの記者時代)
アントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは・・・』 (記者活動とは違うがドラマティック)
『狭き門』ジッド
[平行線]
Andre Paul Guillaume Gide La Porte Etroite ,1909.
- 作者: ジッド,山内義雄
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1954/08/03
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「主よ、ジェロームとわたくしと二人で、たがちに助け合いながら、二人ともあなたさまのほうへ近づいていくことができますように。 ・・・ところがだめなのです。主よ、あなたが示したもうその路は狭いのです―――二人ならんでは通れないほど狭いのです」
フランス生まれのノーベル賞作家による、愛にまつわる悲劇。
この本を愛の物語として、人生の一冊に推す人が多いというので読んでみた。が、どうにも理解しがたかった。特にアリサの心情の狂気じみたストイックさに、「これが純愛なのか?」と首をひねる。どちらも精神的にどMなのがつらい。これを「純愛物語」として読むのはさっぱり解せないが、ある種の「恋の狂気、信仰としての恋愛」として読むとかなりおもしろい。
本書は、厳格なプロテスタントの家に生まれたジッドの実体験がもとになっている。プロテスタント的な厳しい倫理が、恋愛において実行されるとどうなるか。
主人公ジェロームと、従姉のアリサは、二人は互いに深く愛している。だけどその愛は平行線のように交わらない。ジェロームは、結婚したいというごく普通の「地上の愛」を求めたのにたいして、アリサは極度に精神的な「天上の愛」を求める。アリサはジェロームとの接触を拒む。ジェロームは、アリサを神格化して、踏み込めない。エロスか、タナトスか。二人の愛は交わらない。
アリサの心情は、正直いってかなり分かりづらい。自分の現世の幸せよりも、別の幸せを求めるというその心。彼女が目指したものは、結局なんだったのだろうか?
彼女は熱心に「神への愛」を力説するが、それは「キリスト教」というより「ジェローム教」だ。アリサは自分のエゴイズムを極力美しい形に仕立て上げた。彼女が求めたのは、結局は自分の理想であって、とてつもなく利己的だったように思える。
アリサほど、本音が見えにくい人物もあまりいない。語る言葉と書く言葉は、倫理や神という言葉で隠されている。残された彼女の日記は、彼女の心が語られているかのように見えるが、彼女によって「うまく書かれている」と思われるページは破り捨てられた。
なんともねじれた、愛の到着点。誰も悪くないのに、誰もが泣いている。
recommend:
ホーソーン『緋文字』 (プロテスタントの倫理)
マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義』(社会学の視点から)
三浦綾子『氷点』 (キリスト教と人の心)
『肉体の悪魔』ラディゲ
[魔に憑かれ]
Raimond Radiguet LE DIABLE AU CORPS , 1923.
- 作者: ラディゲ,新庄嘉章
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1954/12
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僕は愛などなくてもいられるように早く強くなりたかった。そうすれば、自分の欲望をひとつも犠牲にする必要はなくなる。しかし僕は、同じ奴隷でも、官能の奴隷になるより愛情の奴隷のほうがずっとましだということを知らなかったのだ。
あまりに早熟な才能による、恋する男の心を暴いた作品。
ラディゲの人生はあまりに回転が速すぎた。14歳で人妻と恋に落ち、フランスの文壇や芸術家と交流を交わし、20歳で夭折した。本書は、この若い恋愛をもとにしている。
プロットは至ってシンプルだ。第一次世界大戦のフランスで、「僕」は15の年に19歳の人妻と出会い、燃えるような恋愛をする。2人の関係はまさに炎のようで、激しく燃えあがって尽きる。こうしたごくありきたりのプロットを、最後まで飽きさせずに読ませる描写がすばらしい。
「恋愛は究極のエゴイズム」であるという。若い男性の自負心にもとづく臆病さやエゴイズム、言い訳、身勝手さが、氷のナイフのような鋭さをもって、ぎくりと、ひやりと、突きつけられる。
僕のこうした洞察は、無知のいっそう危険なかたちだった。自分ではなんでも承知しているつもりだが、無知の別の状態に移っただけなのだ。いかなる年齢の相応の無知を逃れることはできない。
こうした文章を書いたのが、20歳前のことである。衝動的でまるで魔に憑かれたような恋情、若さしか書けないような描写を行いながら、同時にそれを俯瞰し観察している、その二重の視線。早熟な才能とは、彼のようなことを言うのだなあと思う。荒削りだが無駄がない。最後が少し弱いのが残念。
大戦は、子供の心から「子供らしさ」を奪っていった。猫にチーズを与えるように。ガラスは破られる。
追記:
ラディゲはコクトーと非常に親しかった。ラディゲの死後、コクトーが悲しんで薬物におぼれるほどだったという。その薬物中毒の中、コクトーが書いたのが、『恐るべき子供たち』。喪失の悲しみと、少しらりった世界が反映された作品かなと。
recommend:
コクトー『恐るべき子供たち』 (親友による物語)
バタイユ『マダム・エトワルダ/目玉の話』 (早熟な子供とエロティシズム)
『恐るべき子供たち』ジャン・コクトー
[子供部屋という王国]
Jean Cocteau LES ENFANTS TERRIBLES , 1929.
- 作者: コクトー,中条省平,中条志穂
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2007/02/08
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パリの下町に住む子供たちの世界が、静かに崩壊していく物語。
光文社新訳文庫は、発刊以来チェックしているが、特にこの「恐るべき子供たち」は、コクトー自身が書いた挿絵があるのが見所。雪合戦のシーンの美青年ダルジュロスや、エリザベートの肖像などは、なかなかに印象的。
この物語は、シェイクスピアのような「劇場意識」が強い作品だと思った。 舞台は、子供だけの混沌の空間の「子供部屋」で形作られる。
子供部屋の住人でいられるのかそうでないのか? けっきょく、最後まで「子供」でいられたのはポールとエリザベート姉弟だけで、彼女らもそして退場していく。
この作品はコクトーが薬物中毒の最中に書かれたという。なるほど、世界が浮遊するようなこの感覚。子供のころは、逆に今よりも死が身近にあった気がする。
世界は幻想的で、美しく、子供たちの王国は静かに消滅する。
recommend:
ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』 (幻想的な青春と死)
ラディゲ『肉体の悪魔』 (コクトーの夭折の親友による恋愛物語)
『うたかたの日々』ボリス・ヴィアン
[生きにくい世界と若者が]
Boris Vian L'ECUME DES JOURS ,1947.
- 作者: ボリスヴィアン,Boris Vian,伊東守男
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2002/01
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- 作者: ボリスヴィアン,Boris Vian,曽根元吉
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1998/02
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フランス生まれの「永遠の青春小説」。「20世紀の恋愛小説中もっとも悲痛な小説」という端書があれば、それは読みたくもなってくる。
この本がフランスの若者の間で大流行したのだというから、すごい。なにがすごいのかというと、この不可思議な幻想の世界の話が流行になるというその風土。日本でも読む人はたくさんいるだろうけど、ブームになることはきっとないのでは。
本書は、3組の恋人たちと、いかれた世界の物語。「ライターに太陽の光を数適たらしこむ」。 物語はこんな表現に満ち満ちている。
外の世界はことごとくいかれていて、まるで残酷な童話のようだ。 すぐ人は死ぬし、死に方もいちいち異常。 むしろ主人公の6人だけが普通というか、世界にそぐわない純粋さを持っている。 それが「若者」であり、「青春」ということだろうか。
ものすごく「詩」ぽい小説だと思った。掛詞や造語などの言葉遊びがこの作品の魅力のひとつでもあるのだが、原書で読めない日本人にとっては、どうしても分からないニュアンスがある。 本当はもっとおもしろいんだろうなあと思うと、残念でならない。
それでも、奇想天外な世界観は十分に楽しめる。 特に、主人公コランの作ったピアノを弾くとその音に見合ったカクテルが出てくる「カクテル・ピアノ」は秀逸で、本気で我が家に欲しいと思ってしまった。
肺に蓮の花が咲く病気で、離れ離れになる恋人たち。狂いながらも美しい情景の欠片が、浮かんでは消え、浮かんでは消える。
追記:
ちょっと前に映画になった「恋愛写真」の小説で、「うたかたの日々」が小道具で出てきたのを覚えている。結局、「恋愛写真」は本書の下手な焼き直しもどきでしかなかったが(それでもあれは売れましたね)。
ほか、岡崎京子が漫画化していたり、それなりに日本ナイズされて、日本文化に影響を与えているという、なんか不思議な立ち位置の本。
recommend:
コクトー『恐るべき子供たち』 (若い恋人は生きにくい)
サルトル『嘔吐』 (「うたかた」にはサルトルのもじりがいっぱい出てくる)
ブローディガン『西瓜糖の日々』 (雰囲気がよく似てる)
『ムッシュー・テスト』ポール・ヴァレリー
[不可能の紳士]
Paul Valery MONSIEUR TESTE , 1896.
- 作者: ポールヴァレリー,Paul Val´ery,清水徹
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2004/04/16
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20世紀フランスの知性と呼ばれた、詩人ヴァレリーによる、不可思議な紳士の文章。「ムッシュー・テストと劇場で」「ムッシュ・テストの航海日誌」など、いくつかの連作からなる。
「文章」とあえて呼んだのは、小説ともつかず、物語ともつかず、しかし奇妙に印象的な文章の束だと思ったから。哲学のような、訓戒のような? 何かとてつもなく核心めいたことを言っているようで、それでいて理解の枠をさらりと踏み超える。まるで錬金術師の日記を見ているような、そんな変な読後感だった。
本書は、ムッシュー・テストという、まるでつかみどころのない、どこか人間離れしている一人の紳士について、さまざまな角度から描いている。
「この種の人間の生存は現実では数十分以上つづくことはできないだろう」
ムッシュー・テストについて、序で述べられている言葉。そして問いが続く。
「なにゆえにムッシュー・テストは不可能なのか?」
「心はひとつの無人島」「神なき神秘家」「胸像のない人間」……このほかにも、彼について述べられる言葉は、謎めきに謎めいている。
主張もなく、執着もなく、迷いもない人間。もし本当にこんな人間がいるのだとしたら、およそ言葉で語るのは不可能だと思うし、一方で彼は文学の中にしか存在しないとも思う。
ムッシュー・テストみたいな人がもし近くにいたら、いやおうなしに引き込まれてしまうような、引力を持っていると思う。でも、友達にはなりたくないし、なれそうもない。
ヴァレリーは難解な作家と称される。 彼が生涯かけて取り組んだ「自己の鏡」でもある「ムッシュー・テスト」。本書は、彼の思考の深淵をぽかりとのぞかせる。
recommend:
ムージル『特性のない男』 (人間でありながら、人間でないような)
ドストエフスキー『罪と罰』 (人間を超えようとして、超えられなかった)
『ボヴァリー夫人』フローベール
[現実から逃げ切る]
Gustave Flaubert MADAME BOVARY , 1857.
- 作者: フローベール,生島遼一
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1997/05
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難破船の水夫のように、生活の孤独のうえに絶望した目をさまよわせつつ、 はるか水平線の靄のうちに白い帆のあらわれるのをもとめていた。
現実世界とうまく折りあいをつけられない女性が、夢の世界に生きて死んでいく物語。 じつに正統派の小説だ。
当初、19世紀のフランスでは、主人公が不倫する描写が問題となって、作者が罪に問われたらしい。裁判の時、フローベールが「Madame Bovary, c'est moi/ボヴァリー夫人は私だ」といったことは、あまりにも有名だ。
ボヴァリー夫人、エマみたいな人って、けっこう多いのではないかと思う。現実と理想の違いに悩み、逃げることを選ぶ人。 彼女の場合、逃げる先は恋とぜいたくな買い物だったが、 人によっては宗教だったり仮想空間だったりするわけで。
人生はたいていが思うようにはいかない。さて、それにどう対応するか?
うまく折り合いをつけるか、あきらめるか、別の世界に逃避するか。それは人それぞれの選択である。
逃げる選択、それは先の見えない霧の道を走り続けるようなものだろうか。 帰ることもできなくて、ひたすら走って、疲れて、なにかにつまづいて転ぶ。そうしたらたぶん、簡単にはもう起き上がることができない。
世界と折り合いをどうつけるか、これはとても興味のあるテーマである。個人的には、あんまり逃げる選択は好きではないのだが、でもわかる、と思った。
エマのすごいところは、徹底的に現実から逃げ切ったところではないかと思う。 フローベール自身もまた、ほとんど外に出ることなく、小説を書き続けた。 冷静に、世界を少し遠くから見つめる視線を内側からのぞき見る。
recommend:
トルストイ『アンナ・カレーニナ』 (不倫、そして同じ結末)
ジッド『狭き門』 (神への愛に逃げる)
『悲しみよこんにちは』サガン
[思い出す、悲しみは]
Françoise Sagan BONJOUR TRISTESSE , 1954.
- 作者: フランソワーズサガン,Francoise Sagan,朝吹登水子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1955/06/25
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19歳の時に書かれ、フランス文学界から絶賛を浴びた、サガンの処女作。読んだあとのざっくりとした感想は「ああ、フランスだなー」。全体的に、なんともフランスの少女らしいかわいさ、気まぐれ、痛み、残酷さな雰囲気がある物語。
大人になりきれない、なれない、なりたくない。自分にも、かつてそういう時代があったことを思い出す。幼い頃は、大人がとても「大人」に見えたけれど、今自分が同じ年にたった時、大人も必死だったのだと分かる。
主人公は、いわゆる「大人の女性」である父親の愛人に反発し続ける。
彼女はまっすぐに、動かずにしゃべれる女たちの一人だった。
私には、長いすだとか、手持ち無沙汰につかむ物だとか、タバコだとか、 足をぶらつかせるとか、ぶらついている足を眺めるとかが必要だった。
大人の女性と、自分との対比が絶えず絶えず行われて、そして迎える結末。
昔を思い出すような口調、ふと現実に帰る瞬間があって、それが切なさを増している。 水色とバラ色の石を拾って、それを今眺めているシーンが、お気に入り。 青春がすでに過ぎ去ってしまっている人にとって、それを思い出す時には、きっとこんな気持ちになるに違いない。
今日、この石は桃色に、暖かく私の手の中にあって、私を泣きたくさせる。
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