『火を熾す』ジャック・ロンドン|命の炎が燃え上がる
犬の姿を見て、途方もない考えが浮かんだ。吹雪に閉じ込められた男が、仔牛を殺して死体のなかにもぐり込んで助かったという話を男は覚えていた。自分も犬を殺して、麻痺がひくまでその暖かい体に両手をうずめていればいい。そうすればまた火が熾せる。
――ジャック・ロンドン『火を熾す』
命の炎が燃え上がる瞬間
ジャック・ロンドンの「火を熾す」は私が読んだ小説の中でも有数の「極寒」小説で、冬がくるたび折に触れて思い出す。
氷混じりの冬の雨に心が折れそうになると、「火を熾すほどじゃない」とみずからに言い聞かせ、歩く足を速める。マイナス50度に比べれば、0度などハワイのようなものだ。吐く息は凍らないし、凍傷になる心配もないし、生死の境で震えることもない。
- 作者: ジャック・ロンドン,新井敏記,柴田元幸
- 出版社/メーカー: スイッチ・パブリッシング
- 発売日: 2008/10/02
- メディア: 単行本
- 購入: 5人 クリック: 32回
- この商品を含むブログ (42件) を見る
続きを読む
『アルグン川の右岸』遅子建| 消えゆく一族の挽歌
私はすでにあまりに多くの死の物語を語ってきた。これは仕方のないことだ。誰であれみな死ぬのだから。人は生まれるときにはあまり差がないが、死ぬときは一人ひとりの旅立ち方がある。
――遅子建『アルグン川の右岸』
消えゆく一族の挽歌
人生は、死というゆるぎない結論へ向かう一方通行の線であり、それぞれの出発点から始まり、別の線と交差しては離れながら、それぞれの終着点へ向かっていく。
花のように短い一生を終える人もいれば、大木のように長く生き延びる人もいる。長く生き延びた人は、他の人よりも多くの生と死を目撃するさだめだ。
本書は、一族の中でもっとも長く生き延びた女性が、愛する者たちの死、一族の死を見送り続ける挽歌である。
『冬の物語』イサク・ディネセン|世界に爪痕を残す
ペーターはなんとなく察しをつけた。不滅という言葉は、こういう状態のことを言うのだろう。もう、これから先も、過去のことも、考えるのをやめた。この時間だけが彼をとらえた。
ーーイサク・ディネセン『冬の物語』
世界にかすかな爪痕を残す
「あなたはヨーロッパの冬の絵が好きなのね」と母から言われたことがある。そうかもしれない。ノルウェー・オスロのムンク美術館を訪れた時に買った絵葉書は、「叫び」ではなく、冬の夜のものだった。ピーター・ブリューゲルの絵でいちばん好きなのは「雪中の狩人」だ。
寒さは嫌いだが、緯度が高い地域で見られる、氷河めいた冬の青さは好きだ。ヨーロッパに住んでいた時、あまりに長い冬を呪ったものだが(9月から4月まで真冬でコートが手放せなかった)、あの青く透きとおった空気と空と海には、なんども心を慰められた。ディネセン『冬の物語』を読むと、あの青い冬の空気を思い出す。
続きを読む
『ボルヘスのイギリス文学講義』ボルヘス |円環翁が愛する英文学
作品のなかに幻想性だけを見ようとする人は、この世界の本質に対する無知をさらけだしている。世界はいつも幻想的だから。<BR>――ボルヘス『ボルヘスのイギリス文学講義』
ボルヘスが愛する英文学
周りを見ている限り、ボルヘスとの付き合い方は4つある。なにがおもしろいんだと放り出すか、10年ごとに読みかえすか、「ボルヘスを殺せ」と叫ぶか、「○○(任意の地名をいれる)のボルヘス」を量産するか。私は10年参りをするタイプの読者で、今回ひさしぶりにボルヘスの円環に戻ってきた。
『トールキンのベーオウルフ物語』J.R.R.トールキン|英雄の悲哀と孤独
わたしは心を決めました。貴国の方々の切なる願いを完全に成し遂げてみせよう、さもなければ、敵の手にしかとつかまれ、殺されようともかまわないと。騎士にふさわしき勲功を上げるか、この蜜酒の広間がわたしの最期の日を待ち受けるかどちらかなのです!
――J.R.R.トールキン『トールキンのベーオウルフ物語』
英雄の悲哀と孤独
年の暮れ、丸焼きの鶏をヴァイキングのように食べていた時に、古英語の話が出た。
古英語といえば英文学最古の英雄叙事詩『ベーオウルフ』である。数年前に岩波版で挫折して以来しばらく忘れていたが、調べてみたら『指輪物語』の作者トールキンによる注釈版が出版されていた。ファンタジーの大御所がファンタジーの源流を解説してくれるとはありがたい。
『ヌメロ・ゼロ』ウンベルト・エーコ|ニュースと陰謀の融解
アメリカ人はほんとうに月に行ったのか? スタジオですっかりでっち上げたというのもあり得なくはない。月面着陸のあとの宇宙飛行士の影をよく観察すると、どこか信用しがたい。それに、湾岸戦争はほんとうに起こったのか。それとも、古いレパートリーの断片を見せられただけじゃないのか。おれたちは偽りに囲まれて生きている。
――ウンベルト・エーコ『ヌメロ・ゼロ』
ニュースと陰謀の融解
「ジャーナリズム」は「journal+ism」であり、ラテン語の「毎日の記録」「日刊の官報」という意味から派生した。
日々の事実を記録する。昨日に起きた事実と今日に起きた事実の因果関係を語る。10年前の記録を掘り起こして因果関係を調べる。これらの活動はジャーナリズムとみなされる。
では、事実かどうかわからない「曖昧な記録」を残したり、曖昧な記録から因果関係を語ったり、関係ない事実をつないで因果関係があると語ったり、事実がないところから記録をでっちあげることは? もちろんジャーナリズムではない。だからジャーナリズムを担う者と組織は「情報の信頼性」を標榜する。
「情報の信頼性」はジャーナリズムの原則である。そうでなければ、なにが事実でなにがフェイクかなにもわからなくなる。で? 実際のところは?
続きを読む
『舞踏会へ向かう三人の農夫』リチャード・パワーズ|写真という爆心地
写真を見るだけで、三人が舞踏会に予定どおり向かっていないことは明らかだった。私もまた、舞踏会に予定どおり向かってはいなかった。我々はみな、目隠しをされ、この歪みきった世紀のどこかにある戦場に連れていかれて、うんざりするまで踊らされるのだ。ぶっ倒れるまで、踊らされるのだ。
リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』
写真という爆心地
『舞踏会へ向かう三人の農夫』の写真を撮影したドイツ人写真家アウグスト・ザンダーは、最も好きな写真家のひとりである。私にとって『舞踏会へ向かう三人の農夫』はパワーズの小説というよりは「ザンダー本」で、「表紙がザンダーだから」という理由だけでこの本を買った。
なぜザンダーが好きかといえば、被写体と目が合うからだ。かつて私は東京都写真美術館で開催されたザンダー展で、「若い農夫たち」からの視線を感じて振り返ったことがある。そんな経験はめったになかったから驚いた。そして本書を読んで、さらに驚くことになる。パワーズよ、お前もか。
続きを読む
『最初の悪い男』ミランダ・ジュライ|自己防衛の孤独から抜け出して、他者へ
効果は、一応はあった。ただし"アブラカタブラ"と唱えたらウサギが消えました、じゃん! というような効き方ではなかった。"アブラカタブラ"を何十億回、何万年もかかって唱えつづけているうちにウサギが老衰で死に、それでもまだ唱えつづけているうちにウサギは腐って分解されて土に還りました、じゃん! という感じだった。
ーーミランダ・ジュライ『最初の悪い男』
人恋しさとさびしさを埋めるには他者の助けがいるが、他者は自分とは違う人間であり、望むとおりに愛してそばにいてくれるとは限らない。期待して心をあずければ、望みが叶わなかった時の痛みは激しいものになる。
他者と真剣に関われば、激しい喜びと激しい痛みが制御不能でやってくる。関わらなければ、傷つくリスクを抑えられる。さて、どちらを選ぼうか?
『パリに終わりはこない』エンリーケ・ビラ=マタス|自意識・イン・パリ
<<私くらいの年齢になれば、何とかして外見だけでもヘミングウェイに似ているとまわりの人に認めてもらいたくなりますよ>>
ーーエンリーケビラ=マタス『パリに終わりはこない』
自意識・イン・パリ
私たち人類は、「褒められたい」「認められたい」と願う生き物で、得意なことや好きなこと、執着することで欲求を満たそうとする。たとえば、本や文章が好きな人なら「文章を多くの人に読んでほしい」「文章がうまいと褒められたい」「作家として認められたい」と願うだろう。
ビラ=マタスは、「書くことに執着する者の自意識」をこじあけてくる。
- 作者: エンリーケビラ=マタス,Enrique Vila‐Matas,木村榮一
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2017/08/25
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (3件) を見る
続きを読む
『移動祝祭日』ヘミングウェイ|どこまでもついてくる祝祭
「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」
ーーアーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』
どこまでもついてくる祝祭
世の中には2種類の人間がいる。パリにどうしようもなく惹かれる人間と、そうでない人間だ。私は後者だが、周りにはだいたいいつも数人の「パリ人間」たちがいた。彼らはパリに足を踏み入れる前からパリを第二の故郷と見なし、パリを何度も訪れ、フランス語を学び、フランス語を使う仕事をして、何人かはパリに移住した。
本書を読んで、ヘミングウェイも「パリ人間」であり、彼らにとってパリは“A Mobable Feast”ーーどこまでもついてくる祝祭、移動祝祭日であることを知った。パリでワインを飲み、散歩をし、交流をして、「パリに帰りたい」と語る友人たちとヘミングウェイの言動がそっくりなものだから。
- 作者: アーネストヘミングウェイ,Ernest Hemingway,高見浩
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2009/01/28
- メディア: 文庫
- 購入: 6人 クリック: 27回
- この商品を含むブログ (51件) を見る
続きを読む
『ボリバル侯爵』レオ・ペルッツ|予告された自滅の記録
「…あの謎めいた意思をなんと呼べばいいんだ。俺たちすべてをこれほどまでに弄び、惨めにしているあれを。運命か、偶然か、それとも星辰の永遠の法則か?」
予告された自滅の記録
戦いにおいて最も効率がよい勝利方法は「敵が自滅する」ことだ。古今東西の軍隊が、情報操作、対立構造、不信や恐怖の蔓延など、「自滅させる方法」を編み出してきた。
しかし、『ボリバル侯爵』に登場するナポレオン軍ナッサウ連隊は、「自滅させられた」のではなく、自分たちの手で自分たちを壊滅させた。自分たちにしかけられる作戦内容を完璧に把握していたにもかかわらずだ。
「ナッサウ連隊の壊滅は、自軍の将校たちが明確に意識して、ほとんど計画的にもたらしたものである」と本書の序文には書いてある。
明確に意識して、ほとんど計画的に自滅する?いったいなぜそんな馬鹿なことが?
『ノートル=ダム・ド・パリ』ユゴー|激情うごめく失恋デスマッチ
…こうなるともう、ノートル=ダム大聖堂の鐘でもなければ、カジモドでもない。夢か、つむじ風か、嵐だ。音にまたがっためまいだ。…こんな並外れた人間がいたおかげで、大聖堂全体には、なにか生の息吹みたいなものが漂っていた。
この鐘の音こそ、彼がきくことのできるただ一つの言葉だったし、宇宙の沈黙を破ってくれるただ一つの音だった。
古い友人が結婚してパリに移り住んだので、祝いにパリを訪れた。祝いの硝子と製氷機(ヨーロッパの製氷機は使い物にならないらしい)とともに、ユゴーの『ノートルダム=ド・パリ』を鞄に放りこんだ。
文庫化して手に取りやすくなってNHK『100分de名著』で紹介されたにもかかわらず、いまだ「みんな知ってるけど読む人はあまりいない」本書は、正気ではなかなか読む気にならず、異国で過ごす非日常で読むぐらいがちょうどいいと思ったからだった。このもくろみは当たっていて、私はパリでおおいに驚き、頭を抱え、怒りと呆れでパリ血糖値が上がり、結末で叫び、愛と呼ぶにはあまりにも醜悪で激烈な感情のヘドロに飲まれることになった。
続きを読む
「海外文学・世界文学ベスト100冊」は、どの1冊から読み始めればいいか
#2019年、編集済み。
「海外文学の名作100冊」を分類する
世界文学・海外文学は広大な海あるいは原野のようだ。それゆえ、初心者にとって地図がとても見づらい。「面白い」「古典」「話題になっている」という定性的な物差しはたくさんあるけれど、それだけで歩くにはあまりにタイトルの数が多すぎる。さらに「面白い」の基準は人それぞれなので、リストは無数にある。ほんのり海外文学に興味はあるけれど、どの羅針盤を使えばいいのかわからない人が「とりあえず海外文学ベストならまちがいないのでは」とベスト荒野に向かい、アチャス&エペペする姿を何度も目撃してきた。
というわけで、ノルウェー・ブック・クラブが2002年に公表した”Top 100 Books of All Time”「世界最高の文学100冊」を「値段」「ページ数(読了までの長さ)」「入手可能さ」という定量的な指標で分類してみた。本リストを選んだのは、おそらく日本で最もブックマークがついている海外文学ベスト100のリストだからだ。わたしの好みど真ん中のものもあれば、外れているものもある(わたしの個人ベストはこちら)。
ノルウェー・ブック・クラブ「世界最高の小説100冊」:世界54カ国の著名な作家100人の投票によって選ばれた。
お金がないけれど時間がある学生は「値段」を見ればいいし、ふだん本をあまり読まないのでいきなり長いものはつらいという人は「かかる時間」を基準にして選べばいい。宵越しの金は持たないからとにかく面白いものを、という快楽主義者は私の独断による一言を眺めつつ題名の格好よさで選んでみてもいいだろう。
ようは、その時の気分にあった本を鼻歌でも歌いながら選べばいい。必要なのは、多様な指標とそれに沿った分類、選択肢を増やすことだ。
表記の基準
- 出身国:言語 |値段 | ページ数 | 入手可能さ | 翻訳の年代|
書籍データはAmazon.co.jpのカタログに準拠。複数社から翻訳が出ているものについては、総合評価が最も高いものを選んでいるが、ものによっては次点を採用した(理由については各コメント参照)。
『メダリオン』ゾフィア・ナウコフスカ|人間が人間にこの運命を用意した
さまざまなところから死亡の知らせが届く。…人びとはあらゆる方法で死んでいく、ありとあらゆるやりかたで、どんなことも口実にして。もう誰も生きていないし、しがみつくもの、守り通すものはないように思えた。死はそれほどに偏在していた。−−ゾフィア・ナウコフスカ『メダリオン』
人間が人間にこの運命を用意した
小中学生だった頃の記憶はおぼろげになりつつあるが、母が第2次世界大戦のドキュメンタリーをよく見ていたことはよく覚えている。夕食の後に「パリは燃えているか」が流れると、子供たちはテレビの前に集まった。
絶滅強制収容所のことを知るほど、当時のわたしは驚きとまどった。人間はこんなことができてしまうのか? ここまで人を殺せる感情ってなんだ? わたしにもそういう一面があるのか? この混乱と問いは続き、「人間の心を奥底までのぞきたい」探究心の源流となった。本書『メダリオン』は、あの時の混乱を思い出させる。
続きを読む
『侍女の物語』マーガレット・アトウッド|「男の所有物」となった女の孤独な戦い
わたしたちは二本の脚を持った子宮にすぎない。聖なる器。歩く聖杯。
−−マーガレット・アトウッド『侍女の物語』
2017年、Huluがディストピア小説『侍女の物語』をドラマ化して人気を博しているという。トランプ政権になって『1984年』とともに『侍女の物語』が平積み現象が起きてからすぐドラマ化されたことになる。
「映像化したら迫力があるだろう」と思っていたから、さっそくトレーラーを見てみた。壁に揺れる絞首の縄、義務をひたすら説く監視役の老女、胃がぎりぎりするような不安と閉塞感、なにより侍女たちが着る服の一面の「赤」が鮮烈でえぐい。 彼女たちがまとう赤は女の色、血の色、妊娠の徴の色、怒りの色、警告の色であり、彼女たちの姿を見るごとに心が落ち着かなくなる。
- 作者: マーガレットアトウッド,Margaret Atwood,斎藤英治
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2001/10/24
- メディア: 文庫
- クリック: 51回
- この商品を含むブログ (41件) を見る
続きを読む