ボヘミアの海岸線

海外文学を読んで感想を書く

『少年十字軍』マルセル・シュウォッブ

 いつも同じ黄金の面をわれらに向けるあの月も、おそらく暗く残忍な別の面をもつのであろう。……けれども予はもはやこの世の表面など見たくない。暗いものに目を向けたいのだ。

――マルセル・シュウォッブ「黄金仮面の王」

極彩色の幻影

 思い出したのはクリムト、尾形光琳の黄金だった。
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 絢爛という表現がふさわしいシュウォッブの世界には、鉱物のきらめき、赤と薔薇色の腕を狂わせて踊る炎、血にぬれた黄金仮面といった極彩色の幻影が乱反射している。かつての偉大な王の宝物殿に眠る古代地図や宝石が言葉を吐いたら、このような奇妙に煌めく物語を語り出すのかもしれない。

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『ナペルス枢機卿』グスタフ・マイリンク

 私たちがなしとげる行為には、それがいかなるものにもあれ、魔術的な、二重の意味があるのだ、と。私たちには、魔術的でないことは、何ひとつできない――。

——グスタフ・マイリンク『ナペルス枢機卿』

おぞましき、この現世

 真夏の日照りが続くさなかにマイリンクを読むと、あまりの明度の違いに目がくらむ。マイリンクの小説世界には、太陽の気配や生命の明るさといった陽の気配がいっさい感じられない。あるのはただ闇、虚無ではなく、見えないなにかが満ちてうごめいている、密度の濃い暗黒だ。

 マイリンクの見る世界は悪夢のようである。彼は、世界がふたつの不平等なあちらとこちらに分かれており、わたしたちが日常と呼ぶ「こちら」の世界は、たえず「あちら」の世界に浸食されているという世界観にもとづいて、小説世界を構築した。空は、布にくるまれたあちらの世界がおおっており、そのすきまからはたえず黒い水銀の暗黒がもれ出てくるように、彼には見えていたのではあるまいか。

ナペルス枢機卿 (バベルの図書館 12)

ナペルス枢機卿 (バベルの図書館 12)

  • 作者: グスタフ・マイリンク,ホルヘ・ルイス・ボルヘス,種村季弘
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 1989/04/21
  • メディア: 単行本
  • クリック: 9回
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『ウンベルト・サバ詩集』ウンベルト・サバ|坂の上のパイプ

 このことを措いてほかには
 なにひとつ愛せず、わたしには
 なにひとつできない。
 痛みに満ちた人生で、
 これだけが逃げ道だ。

――ウンベルト・サバ「詩人 カンツォネッタ」

坂の上のパイプ

 数年ぶりにもういちどサバの詩集を読みかえしたとき、ふせんをつけたページには「悲しみ」という言葉が多いことに気がついた。須賀敦子の訳だからだろうか。それとも、先に読んだ彼女のエッセイ「トリエステの坂道」にひきよせられたか。サバの住んだ町トリエステを訪ねるこの名文は、亡き夫ペッピーノを回想するところから始まる。早々と逝ってしまった夫を思いおこす須賀敦子の言葉は、いつも静かな悲しみに満ちている。

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『ヴェネツィア 水の迷宮の夢』ヨシフ・ブロツキ―

 総じて、愛というのは光速で現れ、そして別離は常に音速でやってくる。
——ヨシフ・ブロツキ―『ヴェネツィア 水の迷宮の夢』

追憶の水路

 迷子になりたい、行方不明になってしまいたいという思いがいつからめばえたのか、もう今となっては思い出せない。自分をとりまくものから逃げ出したいわけではなく、かといって、なにか目的があるわけでもない。

 あえていうならそれは、空白へのあこがれ、迷宮への熱情であったかもしれない。いつ、どこで、誰が、なにを、どうした、といった新聞記事に必要な情報をすべてそぎおとし、時空間のすきまへ魚のように沈んでいけば、自分がもうすこし自分になじむ気がした。

ヴェネツィア 水の迷宮の夢

ヴェネツィア 水の迷宮の夢

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『リチャード二世』ウィリアム・シェイクスピア

 私の栄誉、私の権力はあんたの自由になっても、
 私の悲しみはそうはいかぬ。私はまだ私の悲しみの王だ。

——ウィリアム・シェイクスピア『リチャード二世』

悲しみの王

 リチャード二世は、不思議な印象を残す王だ。シェイクスピアの史劇における王は、廃位の運命に飲まれあまり印象に残らない王か、リチャード三世のように強烈で忘れがたい王かのどちからであることが多い。しかし、リチャード二世はその間隙をぬうように次々とその心を変えていき、安直なレッテルづけを拒む。


 リチャード二世はプランタジネット朝最後の王である。この後、王の血筋は分裂し、ランカスターとヨークの史劇『リチャード三世』『ヘンリー四世』『ヘンリー五世』『ヘンリー六世』などへとつながっていく。

リチャード二世 (白水Uブックス (11))

リチャード二世 (白水Uブックス (11))

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『野性の蜜 キローガ短編集成』オラシオ・キローガ

 「これは蜜だ」体の奥から食欲が涌きあがってくるのを感じながら、公認会計士は独りごちた。「蜜のいっぱい詰まった、蜂の巣房に違いない……」――オラシオ・キローガ「野性の蜜」

飲み干す死

 作家が死をどうとらえ、どう描くかが気にかかる。シェイクスピアはしゃれこうべになればみな同じと語り、ハイヤームは土に還るまでぞんぶんに酒を飲めとうたい、ボルヘスは死を無限の彼方に隠した。

 ウルグアイにうまれ、アルゼンチンを終のすみかとしたオラシオ・キローガは、「死の作家」との異名を持つ。彼は、すべての最終点、逃れられない結末として死を描く。死は病院や壁の向こう側に切り離されたものではなく、姿見にうつるおのれの姿のように、日々の生活の中にくりかえし立ちあらわれる存在だ。事実、キローガのまわりには死があふれていたようで、両親、妻、友人、子供がそのほとんどが事故死・自殺を遂げている。本書におさめられた短編30編あまりのうち、死をあつかった作品は半分以上にのぼる。

野性の蜜: キローガ短編集成

野性の蜜: キローガ短編集成

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『遊戯の終わり』フリオ・コルタサル

 大きくカーブした線路が家の裏で直線に変わるそのあたりが、わたしたちの王国だった。——フリオ・コルタサル『遊戯の終わり』

異界への落下

 夏になると南米文学に手がのびるのはここ数年来の習性で、モヒートを飲みながら南米の短編をつまむことを、夜な夜なの楽しみとしている。コルタサルの作品は、路地裏バルのタパスに似ている。南米圏らしい土のにおいを感じさせず、都会的で、どれも短いながらに良品がそろっており、よいつまみとなる。

 本書は、コルタサルが残した数多くの短編のうち、初期のものをおさめる。全18作品と、『悪魔の涎・追い求める男』の2倍近くの作品が収録されている。代表的な作品を集めた『悪魔の涎・追い求める男』にくらべれば『遊戯の終わり』はやや物足りなさを感じはするものの、「遊戯の終わり』「殺虫剤」といった、『悪魔の涎・追い求める男』にはないノスタルジックな雰囲気を持つ作品がある。

遊戯の終わり (岩波文庫)

遊戯の終わり (岩波文庫)

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『事の次第』サミュエル・ベケット

 聞いたとおりにわたしは語るそれから死もし死がいつかは来るものならそれでかたづく死んでいく——サミュエル・ベケット『事の次第』

狂人の脊髄


 これは奇書ですよ、といって手渡された。
 一時期、探しまわっていたのだが、あまりに見つからないので、わたしのなかでは幻獣あつかいしていた1冊である。ページを繰った瞬間になるほど、と思った。いや、奇書、という言葉ですむものかどうか。

 「事の次第これはすべて引用文ピム以前ピムとともにピム以後の三部にわけて聞いたとおりに私は語る」

 言葉と心象のたれ流しである。句点読点そのほか一切の読みやすさを放棄し、浮かんでは沈む心象風景をパラノイアのように繰りかえし語りつづける。五七五調の訳文のため、音はするすると入ってくるのだが、翻訳詩に特有の「言葉がなじまずにすり抜ける」感覚が尋常ではない。熱にうなされている時に、活字を読みこめないあの感覚を思い出す。イメージを結ぼうとしても、焦点がまったく定まらないのだ。

事の次第

事の次第

 誰かがいるどこかに生きてるどこかに途方もなく長い時間それからおしまいそこにはもういないもう生きてはいないそれからもう一度そこにいるもう一度終わってはいなかったまちがいだったほとんどはじめからやり直し同じ場所か別の場所でそのとき新しい心像光のなかの娑婆で誰かが病院で意識を取りもどす闇のなか

 語り手は言葉を尽くすが、誰かになにかを伝えようとする意思はさっぱり感じられない。夢現の中で自分のためだけに言葉の積み木遊びをし、気まぐれにたたき落としている印象だ。
 脳裏にはただ、脅迫的に繰りかえされた言葉の断片だけが残る。ずた袋、缶詰、泥のなか、尻、爪、缶切り、ウイ、ノン。この白濁とした心象の渦は、狂人が見る悪夢に似ている。



 本書は3部構成で、ピムと出会う前の「ピム以前事の次第」、ピムとともに暮らす「ピムとともに事の次第」、ピムが去った後の「ピム以後事の次第」からなる。
 ピムと出会いともに暮らす、といっても、その共同生活は常軌を逸している。ピムとの出会いは泥の中、「わたし」がピムの尻をさわってふたりは出会うのだが、なぜか「わたし」は缶切りをピムの尻に突き刺し、背中に爪で「わたしだけの文字」を刻み、徹底的に虐待する。ピムはピムで、栄養のある泥をすすりながら生きているらしい。

 ピムの尻に缶切りを突き刺しているわたしのかわりにわたしの尻に缶切りを突き刺しているボムの姿を

 これらの情景は、なんどか文章を読みなおして、どうにかつかんだ断片にすぎない。あとがきでは訳者が情景を整理しているが、あそこまで情報を体系化するためには、いったいどれほど読みこまなければならないのかと、途方に暮れる。もうなすがまま、オブセッションのように繰り返される言葉にひきずられるのでせいいっぱいなのだから。

 ここで何かがまちがっている

 第1部はまだ語り口のユーモアにほほえむ余裕もあったのだが、第2部でそんなものは霧散する。そして確信した、この本は狂っている。


 ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』エリアス・カネッティ『眩暈』など、狂人をあつかった強烈な作品を読んできたが、『事の次第』はその衝撃をすらりと飛びこえ、手の届かない向こう側にいってしまった。
 この世界は閉じている。だからこの本は悲惨だ。狂った人間は、切ないほど間違った世界に生きていて、しかもそこから抜け出す手段を持たない。ひとつの体のなかで響くのは、自分が繰り返す言葉ばかりで、外の世界とつながらない。おぞましいと感じる狂気より、悲惨だと感じる狂気のほうが救いがない。
 「わたし」は、泥の中から現れて、這いまわる。しかし、そこから抜け出せない。時折、かつて「光のある世界」に住んでいたという心象が、あぶくのように浮かんではあっというまにはじける。「わたし」はそれを悲しむでもなく、ただ受け入れているように見える。

 人生人生光のなかの娑婆でのもう一つの人生どうやらときおりはわたしもあんな人生送ったこともあったようしかしもう一度あそこへ娑婆へ上ることなどおよびもつかず誰もそこまでやれとは言わずあんなところにいたことなんかありはしない泥のなかにときおり浮かぶ心象いくつか大地空人間何人かは光のなかにときには立って


 読み終えた今、思い起こすのは、うす暗い病室の片隅、そこでもう目覚めることのない人がひたすら夢を見ているという情景だ。「わたし」は何かの被害者であり、精神に異常をきたしたのだろうか。詳しい説明はなにもなくただほのめかされるばかりだが、全体に満ちる暴力の示唆と、感情の機微を失った白くまっ平らな印象、調律が狂ったようにくりかえされる言葉の渦が、悲惨なひとりの抜け殻を思い起こさせてしかたがない。

 ひとりぼっちで泥のなかそう(ウイ)暗闇のなかそう(ウイ)まちがいないそう(ウイ)あえぎながらそう(ウイ)誰かがわたしの声をきいているいや(ノン)誰もきいていないそう(ノン)

 詩的な言葉でもって、狂人の脳髄を這い回る。まるで精神の煉獄だ。ベケットは何を思って、この白濁を世に残したのだろうか。


サミュエル・ベケットの著作レビュー
『ゴドーを待ちながら』

Samuel Beckett"Les Editions de Minuit"1961.

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『ジョン王』ウィリアム・シェイクスピア


 このように太陽が天に輝き、この世の楽しみが、
 いたるところに目につく誇らしげな真昼間は、
 あまりにも浮き浮きし、あまりにもけばけばしくて、
 どうも話がしにくい。

—ーウィリアム・シェイクスピア『ジョン王』

揺れる王

 ジョン王(1167-1216)は、イギリスの歴代王の中で最も人気がない王であるらしい。父王から土地を譲られなかったために「土地なし(lackland)」と呼ばれ、かつ即位してからはフランスとの戦争で領地を大幅に失ったため、「失地王」「欠地王」という不名誉なふたつ名がついた。対する兄リチャード1世は、獅子王と呼ばれ、十字軍で活躍している(しかしそのために早死にした)。ジョンは、人気のある兄の影にひそんだ弟、という構図でもある。

ジョン王 (白水Uブックス (13))

ジョン王 (白水Uブックス (13))

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『灯台守の話』ジャネット・ウィンターソン|この物語には終わりがない

 話せば長い物語だ。そして世の物語がみなそうであるように、この物語には終わりがない。むろん結末はある——物語とはそういうものだ——けれど、結末を迎えたあとも、この物語はずっと続いた。物語とはそういうものだから。——ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』

居場所はなかった

 この世に生をうけるとは、頼りない糸を体にからませ、世界からぶら下がることに似ている。糸はやすやすとは切れないが、足下のおぼつかなさはぬぐえない。家族や友人、まわりの人々が糸をたぐりよせることによって、人は地面に近づいていき、やがて足場を踏みしめる。おそらく私たちが社会と呼んでいるものは、所在なさの不安をたがいに軽減するための、無数の梁の往来だ。
 だが、地面に足が届く前に、たぐりよせてくれる人がいなくなってしまったら? 

灯台守の話

灯台守の話

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『アテネのタイモン』ウィリアム・シェイクスピア

 偉大なタイモンだ、高潔、高尚、高貴なタイモン公だ!
 だが、ああ、そのようなほめことばを買う金がなくなると
 ほめことばを言う声もなくなってしまうのです。
 ごちそうの切れ目が縁の切れ目、冬の氷雨が降りはじめると
 青蠅どもは身をかくすのです。

——ウィリアム・シェイクスピア『アテネのタイモン』

人間不信のつくり方

 人はなぜ、人間不信になるのか。
 ルキアノスの対話篇で『人間嫌いのタイモン』として歴史に名を残す男を、シェイクスピアは善意あふれる男として描いた。すべての人間は友人であり、悪い心を持つものなどひとりもいないと人間を無邪気に信じていた男が、なぜ洞窟にひとりこもり、人間を呪うようになったのか。

アテネのタイモン (白水Uブックス (32))

アテネのタイモン (白水Uブックス (32))

  • 作者: ウィリアム・シェイクスピア,小田島雄志
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 1983/10/01
  • メディア: 新書
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 アテネに住むタイモンは裕福な男で、祝宴をひらいては人々を招き、豪勢な贈り物をあらゆる人々に惜しみなく与えていた。しかし、どれほど財産をもっていようとも、とめどない放蕩生活をしていればいずれ底をつく。スパルタにまでおよんでいたタイモンの領地はことごとく譲り渡され、タイモンは破産する。

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『コレラの時代の愛』ガブリエル・ガルシア=マルケス|愛はただ愛であり

 「人の心というのは分からないものだな」——ガブリエル・ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』

愛はただ愛であり

 恋愛は精神疾患であるとつねづね思っているが、このまったく理不尽な感情の渦は、もしかすると熱病に近いのかもしれない。

 舞台は熱病うずまくコロンビア。貧しくみすぼらしい少年フロレンティーノ・アリーサは、美しい少女フェルミーナ・ダーサに一目惚れし、以後51年9カ月と4日、不幸な恋愛に人生のほぼすべてを費やすことになる。とはいっても、50年間ひとりの女性に心を捧げる、というフレーズから想像しうるような純愛ものではまったくない。むしろ、その対極にある物語といっていいだろう。

コレラの時代の愛

コレラの時代の愛

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『さりながら』フィリップ・フォレスト

 一茶はすでに世界についてすべてを知っていた。その悪意、その無尽蔵の美しさ。——フィリップ・フォレスト<<『さりながら』

喪失の水盤

 この切実さはなにごとだろう。フォレストの文章を読みすすめるごと、そう思わずにはいられない。

 日本の作家、俳句、写真家、都市についてフランスの小説家が語るという、日本語の読者ならある種の好奇心と恐れを抱くであろう形式をとりながら、フォレストが語るのは異国としての日本ではなく、どこまでも個人的な物語である。

さりながら

さりながら

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割り切れない愛を描いた海外文学・短編リスト

 「安心できる人とつきあいたいんですよね」と、隣の青年はつぶやいた。相手が自分を好いていて、裏切らないという確信がなければ誰かとつきあう意味がないと。だが、はたして人の心はそれほど単純だろうか?

 もうこれっきりだと思ってメールをしながらこのマフラーはあの子に似合いそうだと考えたり、おたがいに好きだと知りながらも口には出さなかったり、恋人とつきあいながらも心は過去に置き去りにしたままだったり、どんなに長い付き合いでもたったひとつのすれ違いが決定打で離れたりすることだってある。

 割り切れない愛、ひび割れた愛、戻らぬ心、それでもなお手を伸ばす情念、そうした名づけえぬ心に満ちているのが世界ではないだろうか。そんなわけで、隣の青年のために「割り切れない愛を描いた短編小説」リストをつくってみたら、思った以上に心をえぐるラインナップになった。

 ヘビーなものとライトなものが混在しているので、読む順番を間違えると大変なことになるかもしれない。ご利用の際はお気をつけください。

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『彫刻家の娘』トーベ・ヤンソン

 仲間というものは、つぎの日にもういちど言う価値があるような気のきいた話はしない。パーティーで大事な話をするべきではないことくらいはわきまえている。——トーベ・ヤンソン『彫刻家の娘』

茂みの奥から

 「十歳の少年というものは、自分の膝を事細かによく知っている」

 ウラジミール・ナボコフが『ディフェンス』に残した一文だ。さらりと書いてあるが、この一文にははっとさせられる。そう、幼いころは目線がずっと地面に近く、膝の毛穴、へこみ、どこにどの傷があるか、いつごろ治るかをきちんと把握していた。

 成長するにつれて、人は地面に近かった時の世界と見え方を忘れていく。トーベ・ヤンソンは、人生をつうじてあの時に見ていた世界を失わなかった、希有な作家だ。彼女の世界観は、茂みにひそむ動物のそれに似ている。雨に肌をぬらし、土と草のにおいをかぎ、雪を食べて育った「彫刻家の娘」は語る。

彫刻家の娘

彫刻家の娘

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