ボヘミアの海岸線

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『ウンベルト・サバ詩集』ウンベルト・サバ|坂の上のパイプ

 このことを措いてほかには
 なにひとつ愛せず、わたしには
 なにひとつできない。
 痛みに満ちた人生で、
 これだけが逃げ道だ。

――ウンベルト・サバ「詩人 カンツォネッタ」

坂の上のパイプ

 数年ぶりにもういちどサバの詩集を読みかえしたとき、ふせんをつけたページには「悲しみ」という言葉が多いことに気がついた。須賀敦子の訳だからだろうか。それとも、先に読んだ彼女のエッセイ「トリエステの坂道」にひきよせられたか。サバの住んだ町トリエステを訪ねるこの名文は、亡き夫ペッピーノを回想するところから始まる。早々と逝ってしまった夫を思いおこす須賀敦子の言葉は、いつも静かな悲しみに満ちている。

 なぜ自分はこんなにながいあいだ、サバにこだわりつづけているのか。二十年前の六月の夜、息をひきとった夫の記憶を、彼といっしょに読んだこの詩人にいまもまだ重ねようとしているのか。――須賀敦子「トリエステの坂道」

 故郷トリエステで<<ふたつの世界の書店>>という古書店を営んでいたサバは、トリエステの石畳をゆっくりとした足取りで散歩するような詩を書いた。青い地中海、草原、美しい少女、ぶどう酒に宵の路地裏、目にうつるたしかなものをサバは歌い、そこに自身の痛みや悲しみを彫りこんでいく。しっかと世界を見据え、同時に心にも踏みこむ、サバの誠実さがここにはある。

 街を、端から端まで、通りぬけた。
 それから坂をのぼった。
 まず雑踏があり、やがてひっそりして、
 低い石垣で終る。
 その片すみに、ひとり
 腰を下ろす。石垣の終るところで、
 街も終るようだ。――「トリエステ」


 サバの魅力は言葉につくしがたい。ただの人生讃歌ではない。かといって、ペーソスに心を漂白されているわけでもない。彼の言葉は、長い道を歩いてきた人間の足を思わせる。皮はあつく、ところどころにたこができているような、土を知っている者の足だ。あるいは職人の手。夢に遊ぶのではなく、ものの重みと手触りを知っている者の、無骨だが繊細な手だ。

 一日で、いちばんいいのは
 宵の時間じゃないか? いいのに、
 それほどは愛されていない時間。聖なる
 休息の、ほんの少しまえに来る時間だ。
 仕事はまだ熱気にあふれ、
 通りには人の波がうねっている。
 四角い家並みのうえには、
 うっすらと月が、穏やかな
 空に、やっと見えるか、見えないか。――「われわれの時間」

 きみの、ぼくをなじるきみの声は、
 ぼくのこころの寸法にあってる、と思う。――「リーナに捧げる新しい歌」


 足が2センチぐらい地面から浮いていると気づくころに、サバや須賀敦子に手を伸ばしているような気がする。ゆっくりと一息ついて、地面に近づいていくとき、その先が、地中海を望む坂の上の石畳であれと願うばかりだ。

 なにもかもはすばらしい。
 人間もその痛みも、わたしのなかで
 わたしを哀しませるものさえも。――「詩人 カンツォネッタ」

 石と霧のあいだで、ぼくは
 休暇を愉しむ。大聖堂の
 広場に来てほっとする。星の
 かわりに
 夜ごと、ことばに灯がともる。


 生きることほど、
 人生の疲れを癒してくれるものは、ない。――「三つの都市 ミラノ」

Umberto Saba"Il canzoniere",1961.

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