ボヘミアの海岸線

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『ディフェンス』ウラジミール・ナボコフ

 ぼんやりした感嘆の念とぼんやりした恐怖を覚えながら、なんと不気味に、なんとあざやかに、なんと柔軟に、一手一手、少年時代のイメージが反復されてきたか(田舎……学校……叔母)を彼は知り、それでもまだ、どうしてこの手筋の反復が魂にこれほどの恐怖を呼び起こすのかははっきりとわからなかった。——ウラジミール・ナボコフ『ディフェンス』

孤独の盤面

 チェス小説とは「チェスを題材にしている物語」ではなく、「その構成がチェスの棋譜のような物語」なのだと思う。だとするなら、ナボコフほどチェス小説がふさわしい作家もそうはいるまい。セルバンテスやドストエフスキーのような猥雑さを嫌い、端正さや計算されつくした美を好むナボコフがチェスをこよなく愛し、小説を書いたのは、ごく自然ななりゆきだったにちがいない。

ディフェンス

ディフェンス

ナボコフ・コレクション ルージン・ディフェンス 密偵

ナボコフ・コレクション ルージン・ディフェンス 密偵

  • 作者: ウラジーミルナボコフ,Vladimir Nabokov,杉本一直,秋草俊一郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2018/12/26
  • メディア: 単行本
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 チェスに生き、チェスのように生きたルージン少年の短い一生涯の物語である。ルージンはおさない時に叔母に偶然教えられた一戦からチェスに目覚め、めきめきと腕を上げていき、大会に出場するために世界中を旅するまでにいたる。
 だが、これは天才少年の成功譚ではない。むしろ、『ディフェンス』は悲しい物語だ。誰も、哀れで不器用なルージンを愛さなかった。児童文学作家の父親は、ルージンに“自分の作品に出てくるような子供”を求め、母親は夫の浮気を疑って子供にかまけず、後見人のヴァレンチノフはただひたすらルージンの才能だけを利用した。チェスを教えてくれた叔母だけは、ルージン自身を少しだけ見ていたかもしれない。だが、しょせんルージンは彼女にとって甥、他の女の息子なのであり、それ以上の心は寄せられなかった。


 ルージンの妻(彼女はフィアンセや妻と呼ばれ、最後まで名前がない)との関係は愛がからむぶん複雑で、悲劇的である。

 そしてこの陰気な混乱の中央に、まったく何を考えているのかわからない男が鎮座し、幻の芸術に我を忘れていて、彼女はここで思いとどまり、彼の欠点や奇癖を何もかも把握して、この男は結婚相手にふさわしくないときっぱり自分に言い聞かせようとした——それと同時に、彼が教会でうまくふるまってくれるだろうか、燕尾服を着ればどう見えるだろうかと、心配しているのを自分でもはっきりわかっていた。

 ルージンがほれこみ、わきめもふらずに告白した女は結婚の申し込みを受け入れた。だが、そこに愛はない。ルージンの陰鬱な表情、たるんだ腹、奇妙な話し方、冴えわたる頭脳とチェスへの飽くなき情熱を、彼女が愛していたわけではなかった。それでも、両親の反対を押し切って彼女は結婚にふみきる。その心はどこにあったのか? ルージンに金はないし、金持ちになる予定もないから、財産目当てではない。打算ならわかりやすいのだが、ルージンの妻の心はもっと複雑で見えにくい。ルージンの愛するものを理解せず、理解しようとせず、むしろチェスは「彼に悪影響を与える」として、チェスのことを忘れさせようとした。

 彼女のルージンへの優しさは狂人に対するそれで、そこには「私がどうにかしなくては」という、母性に似た——しかし母性とは決定的に異なる——穏当な侮辱がまじっている。ウンラート教授と結婚したフレーリヒ嬢と同じだ。同情はあれど、相手を尊重する敬意はない。だが、悪いことにルージンは彼女を愛していた。だからこそ、彼の盤面は苦しくなる。

 ナボコフはこう書いている。

 「すべてがすばらしい、愛の陰影すべてが。愛が選んだ起伏に富む謎めいた道筋のすべてが。そしてこの愛は命とりなのだ」

 

 しかし月は角張った黒い小枝の背後から現れて、丸い、完璧な月となった——勝利の鮮明なしるしだ。そしてやっとルージンがバルコニーを去り、部屋に戻ったとき、床の上には月光でできた巨大な枡目があり、その光の中には——彼自身の影があった。

 世界そのものをチェス盤に例える描写、登場人物たちの動きをチェスの一手にみたてる構成が美しい。そしてこの美しさは、孤独の美しさである。

 今、眠りの中にも休息はなく、眠りとは六十四の枡目から成る巨大な盤で、中央にポーンほどの大きさの、ふるえている全裸のルージンが立ち、冠やたてがみをつけた巨頭の巨大な駒たちのぼんやりとした配置をのぞきこんでいた。

 人生は孤独の盤面で、人は自分の棋譜を描くためにただひとり、知らぬうちに盤上に立たされている。周りにはたくさんの人がいて、いくつもの思いと心、策略と攻防がある。だが、それらはふれ合いはするものの、チェックメイトにいたるまで「次の手は?」という問いを繰り返すだけで、孤独な心をなぐさめはしない。

 チェックメイトを待つキングは、どんな心で最後の一手を打ったのか。『ディフェンス』はそこにいたるまでの悲しい戦術(ディフェンス)をあざやかにつづった孤独の物語だ。このあまりにも広い盤面の上で、人はひとり、永遠にひとり。


ナボコフの作品レビュー:

Vladimir Vladimirovich Nabokov Защита Лужина The Defence,1930.

recommend:

  • ハインリヒ・マン『ウンラート教授』…夫を愛さずに結婚した女の複雑な心。
  • 『モーフィー時計の午前零時』…チェス文学アンソロジー。
  • ゴーゴリ『検察官』…本書に出てくるロシア文学。
  • プーシキン『その一発』…本書に出てくるロシア文学。

不滅の一戦

 ナボコフが「まえがき」紹介するアンデルセン vs.キゼルツキー戦は、そのチェックメイトのあざやかさからThe Immortal Game(不滅の一戦)と呼ばれる。

 ルークは、もっとも価値が高い駒のひとつだが、アンデルセンはルークをあえて2つとも捨てた。最後にはもっとも強いクイーンすら捨てて、鮮やかなチェックメイトを決める。

 チェスは下手の横好きなのだが、この一戦はすごいと思った。Youtubeで棋譜が見られるので、読む前と読んだ後で鑑賞してみると楽しい。

The IMMORTAL GAME(Youtube)