ボヘミアの海岸線

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『ナボコフのドン・キホーテ講義』ウラジミール・ナボコフ

 『ドン・キホーテ』はこれまで書かれた中で最高の小説だと呼ばれてきた。もちろん、これはナンセンスだ。事実は、世界中の最大傑作の一つでさえないのだ。——ウラジミール・ナボコフ『ナボコフのドン・キホーテ講義』

ナボコフの鉈

 どこで読んだのだったか、ナボコフが文学について語った言葉が印象に残っている。「文学を読むにあたって、作者の意図や真意はどこにあるのかと考えることは意味がない。なぜなら、私は物語を書く時はそういったことは考えず書くタイプであり……」といったような意味だったと思う。
 当時、大学生だった私はときおり文学の講義にもぐりこんでいたが(私はある意味で文学と対極にある学部に所属していた)、どうにも文学の“正解”を読みとこうとするスタイルがなじめなかった。そんな時に、ナボコフの言葉を知ったのである。目の前の先生と代わってくれないかと思ったものだった。

 実際、ロシアから亡命後、ナボコフはハーバード大学で教職についていた。この「ドン・キホーテ講義」と「ヨーロッパ文学講義」「ロシア文学講義」は、授業の原稿をもとに編集したものである。

ナボコフのドン・キホーテ講義

ナボコフのドン・キホーテ講義



 冒頭で「今でも思い出すと楽しくなるのだがね、あの残酷で粗野な昔の作品をずたずたに引き裂いたことがあるのだ」と書いてあるように、ナボコフは『ドン・キホーテ』への不満を隠さない。このあけすけな言葉に最初こそとまどったものの、よく考えてみればナボコフのように技巧を駆使して物理公式のような美学にのっとった作品を書く人にとっては、『ドン・キホーテ』は猥雑で冗長すぎるのかもしれない。ナボコフはチェーホフやトルストイを愛し、ドストエフスキーを批判している。さもありなん。


 では、本書が毒舌悪口に満ちているのかというと、かならずしもそうではない。たしかに、「この文章は大層下手だ」とばっさり切るなど、ナボコフ翁の鉈振るいは容赦がない。いっぽうで、私は『ドン・キホーテ』が「ユーモアあふれる人道的な書物」「キリスト教の精神を反映」「サンチョという無垢な存在」だという、これまでの西欧の評価の方に驚いた。そんな印象は、私はまったく持たたなかった。
 この物語は人道など説いていない、幻想と妄想にまみれたよぼよぼのじいさんをめった打ちにして笑う人々の残酷さ、世界の残酷さをナボコフは強調する。私は『ドン・キホーテ』を愛する読者のひとりであるけれど、賛美者よりはナボコフの意見にうなずきたくなる。
 ドン・キホーテの夢は迷惑だったが、根本的には誰も傷つけはしなかった。しかし周りの人々は容赦せず、ドン・キホーテの夢を粉々に打ち砕いた。『ドン・キホーテ』の読了後はしばし呆然としたものだが、いま思い返してみても、まちがっても「人道的」なんて言葉は出てこない。世界が美しいから笑うのではない。世界が残酷で憂鬱だからこそ、人はユーモアを求める。『ドン・キホーテ』の笑いは悲しみの上に立つ。

 いったいどんな毒舌が待っているのかとおっかなびっくり読みはじめたのだが、ナボコフ流の文学の読み方はとても興味深かった。それに、ナボコフはセルバンテスを評価もしている。

セルバンテスの才、芸術家としての直覚は、これらのばらばらの素材をまとめ、それを用いて、一人の高潔な狂人と俗人である従士についての小説に勢いと統一を与えるのに成功している。

 キリストやリア王と比較しているので、聖書や『リア王』を読んだことがあるなら「なるほど、そう比較するのか」という楽しみがある。後半はナボコフ流の『ドン・キホーテ』要約がついているので、今読んでいる人や途中で挫折して再読したい人の一助となるかもしれない。
 ある作家が別の作家を語る楽しみ、そしてそれを読む楽しみ。読書は連鎖だ。正答はない。


ナボコフの作品レビュー:
『ロリータ』

Vladimir Vladimirovich Nabokov Lectures on Don Quixote,1983.

recommend:
セルバンテス『ドン・キホーテ』前篇後篇…かくも愉快で、かくも憂鬱な世界。
ボルヘス『続審問』…「ドン・キホーテの部分的魔術」収録。
シェイクスピア『リア王』…狂った老人2号。