ボヘミアの海岸線

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『ドン・キホーテ 後篇』セルバンテス

[夢破れて]
Miguel de Cervantes Saavedra Don Quijote de la Mancha,1615.

ドン・キホーテ〈後篇1〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈後篇1〉 (岩波文庫)

「ご主人は狂人だ。しかし、ずる賢さはない。魂が水瓶の水のように澄んでいる。よいことばかりをしようとなさる」

「サンチョは裸で生まれて今も裸。損もしなけりゃ得もしねえ」


 遍歴の騎士の行く先に、暗雲立ちこめる。愉快痛快な「前篇」とはうってかわって、後篇では憂鬱さが増してゆく。
 おそらく、『ドン・キホーテ』が前篇のみで終わっていたら、これほどの名声を博することはなかっただろう。前篇という愉快なコメディの上に、セルバンテスはもう1つの魔法世界を構築した。


 私が瞠目したのは、後篇の世界観だ。前篇と同じように見えて大きく違う。世界は「揺らいで」いる。
 後篇の世界では、私たちの世界と同様に『ドン・キホーテ前篇』が出版されている。フィクション世界に、まるで合わせ鏡のようにもう1つのフィクション世界が入り込んでいるのである。この事態は、「私たちの世界もまた、誰かが書いた書物なのではないか?」という仮説を示唆している。ボルヘスは『ドン・キホーテ』の入れ子世界を「根本的な不安」と呼んだ。


 後篇では、物語で重要な役割を果たす「公爵夫妻」が登場する。夫妻は『ドン・キホーテ』を愛読していて、本物がやってきたことに歓喜し(これがまったくおかしいのだが)、「騎士のように扱う」という壮大ないたずらをしかけた。侯爵夫妻は、いわばドン・キホーテにとっては「世界の保証人」の役割を果たすことになる。「やんごとない人々が、自分をこれほどまでに歓待してくれる! 自分は本当に遍歴の騎士なのだ!」。
 
 世界の保証人を得て、確固たる世界観を得たかに見えるドン・キホーテだが、その心はどんどん揺らいでいく。前篇では、旅籠はすべて城に見えた。しかし後篇になると、ドン・キホーテは旅籠を見誤らなくなる。ドゥルシネーア姫は、ただの汚らしい田舎娘にしか見えない。

 決定的だったのは、ドン・キホーテの敗北だろう。この瞬間、ドン・キホーテの「すばらしい遍歴の騎士世界」は決壊した。悲しい現実――ただの老人、おいぼれ、敗北、弱さといったものが、堰を切って幻想世界にあふれ出てくる。

「拙者は打ち倒された身ではないのか? 負け犬ではないのか?」


 本書は、「世界の見方」について重要な視点を与えている。「世界は、観察者によってその姿を変えうる」。ドン・キホーテの騎士道物語世界と、スペインの片田舎世界は重なり合って同時に存在しうる。しかし、両者は互いに反発し合うものだ。ドン・キホーテの世界は魅力的だが、1人で世界を支えるのはあまりにも重すぎた。クライマックスに進むにつれて、世界観とアイデンティティが迷走していくドン・キホーテを見るのは悲しい。

 ドン・キホーテの親族や友人たちは、狂人じみたふるまいをするドン・キホーテを正気に戻そうと、さまざまな策を立てた。しかし、私は思う。遍歴の騎士 ドン・キホーテではなく、田舎郷士アロンソ・キハーノであることに、一体それほどの意味があるというのか? ドン・キホーテは、周りからはどんなにおかしく見えても、騎士でいる間は幸せだった。人が持つ世界観の「核」をぶち壊す意味と価値はどこにあるのだろうか。ドン・キホーテの狂気は、誰も傷つけなかったのに。


 読後しばし呆然。一度読んだら生涯忘れられない一作となるのは間違いない。生き迷っている現代人は、ぜひ『ドン・キホーテ』を読むべし。人はこれほどまでに、人生を楽しくも悲しくさせることもできるのである。

この世はすべて、たがいに反発しあう策略とからくりのせめぎ合い。


セルバンテスの他著作レビュー:
『ドン・キホーテ前篇』


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