ボヘミアの海岸線

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『コレラの時代の愛』ガブリエル・ガルシア=マルケス|愛はただ愛であり

 「人の心というのは分からないものだな」——ガブリエル・ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』

愛はただ愛であり

 恋愛は精神疾患であるとつねづね思っているが、このまったく理不尽な感情の渦は、もしかすると熱病に近いのかもしれない。

 舞台は熱病うずまくコロンビア。貧しくみすぼらしい少年フロレンティーノ・アリーサは、美しい少女フェルミーナ・ダーサに一目惚れし、以後51年9カ月と4日、不幸な恋愛に人生のほぼすべてを費やすことになる。とはいっても、50年間ひとりの女性に心を捧げる、というフレーズから想像しうるような純愛ものではまったくない。むしろ、その対極にある物語といっていいだろう。

コレラの時代の愛

コレラの時代の愛

 半世紀のあいだに、ふたりが顔を合わせて話したのは数えられるほどで、両思いだった幼少時代ですら、彼らはほとんどお互いの顔を知らなかった。フェルミーナ・ダーサははじめてフロレンティーノ・アリーサを間近に見た瞬間に幻滅し、他の男と結婚して子供と孫をもうけ、裕福な生活を送る(自分で振っておきながら「あまりしつこく言い寄ってこなかった」と腹を立てるあたりがなんとも女らしい)。

 一方、手ひどく振られたフロレンティーノ・アリーサは、何百人もの女と寝ながら、渡り鳥のような独身生活を送る。しかし、彼は常にフェルミーナ・ダーサに「あなたを愛しています」という瞬間を待っていた。半世紀、気の遠くなるような年月を越えてついにその機会はやってくる。男は76歳、女は72歳になっていた。


 神話めいた美しき「初恋の成就」ではない。純愛小説の風体をとりながらマルケスは、人生の苦み、老いの悲しみと喪失、愛という狂気について、むせかえるような花と血と汗の香りでもって描く。

 恋愛の幸せが最大瞬間風速の「点」なら、結婚の幸せとは穏やかに凪いでいる状態を維持するという「線」のようなものだ。男と女がどんなに愛を燃やそうと、長く一緒にいれば情熱はどうしたって冷える。しかし、結婚という契約で結ばれたふたりは、それからもずっと一緒に暮らしていく。結婚は異なる人間たちがともに平穏に暮らすという、きわめて難しいことを何十年も継続していく労力、疲労との戦いとして語られる。

 そんな風に何年も暮らしていくうちに、二人はさまざまな形で、結局はこんな風に暮らしていくしかないし、こんなふうにして愛し合うしかないのだという至極もっともな結論に達した。この世界で愛ほど難しいものはなかった。

 時間は等しくむごく、男と女に老いと苦みを与えていく。かつて狂うほどに恋いこがれた細く白い指先は、老人のにおいが染みついた皺くちゃの枯れ木のようなものに変わっていた。

 その衝撃を、愛は越えられるのか? 肉体の美しさがすべて消え去り、何十年のあいだに犯した数々の過ちを知ってもなお、人の心に取り憑いてやまない執着が愛なのだとしたら、愛とはなんと難しく、狂ったものであることか。

 前夜は彼が手を伸ばしてくるのを待っていた彼女は、この日は自分の方から暗闇の中で彼の手を捜し、だしぬけにつかんだ。フロレンティーノ・アリーサは心臓が凍りついたように感じた。
 「人の心というのは分からないものだな」と彼はつぶやいた。

 「うちの息子の病気はたった1つ、コレラなのよ」——耄碌したフロレンティーノ・アリーサの母親は、恋に狂った息子のことを人に話す時、コレラと恋を取り違えたが、くしくもこの言葉は真実をついていたといえる。


 ナボコフの言葉を借りるなら、すべての小説は等しく「おとぎ話」であるが、マルケスの紡ぐおとぎ話はどこまでも豊穣で、濃密な果実酒を思わせる。恋や結婚への甘い夢を容赦なく打ち砕きながら、同時に神話のような壮大な愛の物語をしかけてくるのだ。「こんな愛は不可能だ」と何度も思うのに、ところどころ心を射抜く鋭い描写があり、うめきながらページを繰り続ける。

 マルケス流の超現実的なエピソードも健在で、ラブレターの代書人がひしめく「代書人のアーケード」や、軍隊の砲撃音を聞きながらの情事(その音は服を脱ぐ女の動作への祝砲のようだと書かれている)、風の流れを読む力を身に付けた幼きフロレンティーノ・アリーサが風に乗せて愛の歌をフェルミーナ・ダーサに届けるくだりなどは、ただもうほれぼれしてしまった。

 つまり、人は同時に何人もの人と、それも誰一人裏切ることなく、同じ苦しみを味わいつつ愛することができるという教えを学んだのだ。

 二人はともに長い人生を生き抜いてきて、愛はいつ、どこにあっても愛であり、死に近づけば近づくほどより深まるものだということにようやく思い当たった。

 愛は呪いであり、狂気である。だからこそ、人生をかけるに値する。愛が愛であることの限界点に向かって、ふたりを乗せた船は、祝福の黄色い旗をたなびかせながら、時間という名の川を遡上し続けている。


G・ガルシア=マルケスの著作レビュー:

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Gabriel Jose Garcia Marquez "El amor en los tiempos del colera",1985.