ボヘミアの海岸線

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『ピダハン』ダニエル・エヴェレット|神を信じない民と宣教師の30年

伝道師としてピダハンの社会を訪れていた最初のころ、私が村に来た理由を知っているか、ピダハンに尋ねてみたことがある。「おまえがここに来たのは、ここが美しい土地だからだ。水はきれいで、うまいものがある。ピダハンはいい人間だ」 

――ダニエル・エヴェレット『ピダハン』

 神を信じない民と宣教師の対話

ここのところ「言語による世界の認識」に興味がある。喃語を話す幼児と暮らしているからだろう。子供は独自の言語を話し、世界の認識も私とは異なっているのだが、単語と文法をおぼえるにつれて、私の住む世界観にゆっくりとではあるが近づいてきている。私は「自分が知らない世界の見方」が好きなので(海外文学を読む理由のひとつだ)、子供が言語習得する様子は楽しくもある一方、惜しいとも感じる。

自分が持つ世界観から外れた別の世界観、別の言語をのぞきたい思いは強まるばかりで、気持ちの発露として、ピダハン語(アマゾン奥地に住む先住民族の言葉)にまつわる本を読むことにした。

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

 

本書は「少数言語の研究と記録」であり、「言語学者の人生が変わる物語」だ。

著者ダンはアメリカ人の宣教師で、キリスト教を広めるためにピダハンが住むアマゾン奥地の村にやってきた。

彼のミッションは「聖書をピダハン語に訳し、ピダハンを神の国に導く」ことだ。翻訳者がおらず辞書もほとんどない環境で、著者はピダハンの村に住み着いて、彼らの言語をほぼゼロから習得しようとする。

数か月あるいは数年だけを過ごす現地研究と異なり、著者はアメリカとブラジル都市とアマゾン奥地を行き来しつつ、30年近くピダハンの村で過ごした。驚くべき長期滞在である。

なぜ30年も? ピダハン語が難しかったから? ピダハンの世界観が西洋とは大きく異なっていたから? ピダハンにキリスト教を理解させるのが困難だったから? 答えは途中まではイエスだが、結果としてはノーだ。なぜなら著者はやがて、キリスト教をピダハンに教える目的を捨て、神を捨てるからだ。著者がピダハン語を学ぶにつれてピダハンの世界観を知り、自分の世界観に疑問を抱くようになっていく過程はじつにスリリングだ。

 

本書は「少数言語の研究と記録」と「宣教師の世界観が変わっていく物語」が入り乱れて進む。

 著者は「ピダハンは人生に満足してよく笑う民族」だと述べる。その理由として「将来を不安に思わない」文化と言語、そして「自分が直接経験したことのみ話す」文化と言語を挙げている。

ピダハン語は、私が話す言語とはかなり違っている。ピダハン語には、言語に必須と言われる「再帰」がない*1

「ありがとう」「ごめんなさい」といった交感言語がない。色を表す形容詞もない(「血のような」で赤を表すことはできる)。

そして、未来形や過去形がない。それゆえ「将来に備える」感覚も「未来を不安に思う」感覚もない(そもそも未来形がないのだから語りようがない)。

ひとつのパターンが見えてくる。ピダハンには食品を保存する方法がなく、道具を軽視し、使い捨ての籠しか作らない。将来を気に病んだりしないことが文化的な価値であるようだ。だからといって怠惰なのではない。ピダハンはじつによく働くからだ。

 

ピダハンの「世界の境界」に関する感覚もおもしろい。ピダハンは「自分が知覚する世界」で生きていて、「自分の知覚から外れた世界」からやってくるもの(視界に入ってくる飛行機、侵入者、病気など)は、「境界を越えてきたもの」として認知される。「境界を越える」という意味を持つ単語「イビピーオ」(「現れる・消える」を同時に表す)は、ピダハンの世界観をよく表している*2

「イービイが病気なのは葉を踏んだからだ」「なんだって? わたしも葉を踏んだけれど、病気ではないよ」……

「上から来た葉だ」コーホイはそう言って、謎を深めた。

「上から来た葉とは?」

「上のビギーの血のないものが下のビギーに降りてきて葉を置いていった。ピダハンが上から来たビギーを踏むと病気になる。ビギーは葉に似ている。だが人を病気にする」

「上から来たビギーだとどうしてわかるんだ?」

「踏んだら病気になるからだ」

……ピダハンにとって宇宙はスポンジを重ねたケーキのようなもので、それぞれの層はビギーと呼ばれる境界で区切られている。空の上にも世界があり、地面の下にも世界がある。

そしてピダハンは直接経験を重んじる。ピダハン文化には世界創世の神話がない。死者の国や神の国もない。なぜなら自分が経験したわけでもないし、目撃者もいないからだ。彼らが物語るのは、「ジャガーをしとめた話」や「子供がうまれた話」など、語り手あるいは知り合いが実際に経験した話に限られる。

超常現象を信じないわけではない。ピダハンは夢を実経験として、現実と同じ次元で語る。精霊も実在する。村人は精霊に扮して森の奥から話したり踊ったりするため、物理的に精霊は存在していると見なされる。

ピダハンの物語は「経験しうる物語」ばかりだから、驚異的な想像力を求める人にとっては、すこし物足りないかもしれない。しかし、それゆえにピダハンは神や神話を信じない。「誰も神を見たことがない」ものをピダハンは必要としていない。彼らは自分の生活に満足しているから「救い」もいらない。

 

このことが、著者にとっては衝撃だったようだ。著者は、キリスト教神の国によって幸福になれる世界を信じていた。キリスト教を知らないピダハンは不幸で、助けてあげる必要があると思っていた。

しかし、彼の世界観はピダハンの世界観を知って激しく揺らいだ。ピダハン語への理解が深まるにつれて、ピダハンの世界観を理解し、彼は自分の世界観に疑問を抱くようになる。

しかしもし自分の人生を脅かすものが何もなくて、自分の属する社会の人々がみんな満足しているのなら、変化を望む必要があるだろうか。これ以上、どこをどう良くすればいいのか。しかも外の世界から来る人たちが全員、自分たちより神経をとがらせ、人生に満足していない様子だとすれば。

伝道師としてピダハンの社会を訪れていた最初のころ、私が村に来た理由を知っているか、ピダハンに尋ねてみたことがある。「おまえがここに来たのは、ここが美しい土地だからだ。水はきれいで、うまいものがある。ピダハンはいい人間だ」

当時もいまも、これがピダハンの考え方だ。人生は素晴らしい。ひとりひとりが自分で自分の始末をつけられるように育てられ、それによって、人生に満足している人たちの社会ができあがっている。この考え方に異をとなえるのは容易ではない。

自分の世界観とピダハンの世界観で揺れているシーンで、ぞっとしたところがある。「ピダハンは神を必要としていない」と途方に暮れる著者に、宣教師仲間が「救いを求めるためには、不安を作らなければならない」と語ったところだ。なにもないところに、争いの種や不安、不満を持ちこんで、救いと物資を売りつける。私たちの世界、歴史、経済、宗教は、たしかにそういう仕組みで回っている。

 ピダハンはただたんに、自分たちの目を凝らす範囲をごく直近に絞っただけだが、そのほんのひとなぎで、不安や畏れ、絶望といった、西洋社会を席巻している災厄のほとんどを取り除いてしまっているのだ。

 

本書は、言語学の記録からはよくも悪くも大幅に逸脱して、やがて「幸福に生きるとはなにか」という問いにたどりつく。幸せに生きる! 誰もが望むことでありながら、気恥ずかしさからか正直に語られにくい話題について、著者は正面から切り結ぶ。

彼の問いと答えはいかにも宗教者らしいものだが、私たちと無関係ではない。私たちは「自国語」という部屋にいて、さまざまな形の窓から外を見ている。同じ部屋にいることに慣れきると、「この窓はなぜこの形なのか?」「なぜここについているのか?」と考える機会は失われていく。

慣れることにより、人は生きやすくもなり、生きにくくもなる。私が違う窓を持つ人の言葉が欲しくなるのは、世界の見方を固定しきらず、揺れたままにしておきたい、世界と人間にたいして興味を失わずにいたいからかもしれない。

 

 どうか考えてみてほしい――畏れ、気をもみながら宇宙を見上げ、自分たちは宇宙のすべてを理解できると信じることと、人生をあるがままに楽しみ、神や真実を探求するむなしさを理解していることと、どちらが理知をきわめているかを。 

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 ピダハンの「今を生きる」「ないものを不満に思わない」世界観は、仏教に似ているのかもしれないと感じた。

 

"Don't sleep, there are snakes Life and Language in the Amazonian Jungle"Daniel L. Everertt,2008.

*1:言語学の大家チョムスキーの理論にまっこうから対立するもので論争が巻き起こったが、異論や反論もある。

*2:著者は経験識閾と名づけた。