ボヘミアの海岸線

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『アルテミオ・クルスの死』カルロス・フエンテス|おまえは選ぶだろう、愛を失う人生を

お前は選ぶだろう、生き延びるために選ぶだろう、無数の鏡の中から一枚を選ぶだろう、たった一枚のその鏡は他の鏡を黒い影で覆い隠し、もはや取り消すことのできない形でお前を映し出すだろう、他の鏡が選び取ることのできる無数の道をもう一度映し出す前に、それらをすべて殺害するだろう。

ーーカルロス・フエンテス『アルテミオ・クルスの死』

 

人生は縦横無尽に張りめぐらされたあみだくじのようなもので、人は岐路にたどりつくたびに意識的あるいは無意識のうちに選択を繰り返し、死という終着点に向かってひた前進していく。

岐路のうちには、その後のすべての道を塗り替えるほど強いものがある。しかし、多くの人は対峙した時には気づかず、後から振り返って、それがそうだったと気づく。

 

 

混沌、この言葉には複数形がない。 

メキシコ革命の動乱を生き延びた大富豪の老人アルテミオ・クルスは、人生の終着点にいる。彼がまもなく死ぬことは、タイトルですでに明かされている。

クルスは一代で財産を築き、政治に影響を与えられるほどの権力を手に入れた。だが、人生に愛はなく、孤独である。家族はクルスを忌み嫌い、クルスもまた家族を見下している。クルスのベッドまわりに集まっているのは、彼の死で利益を得る人たちばかり。

いったいなぜこうなったのか。それはクルスの選択の結果だ。そして時が巻き戻り、アルテミオ・クルスの人生と、クルスが生き延びたメキシコの激動たる歴史が語られる。

 

いけすかない性格をした大富豪の人生譚が、これほどおもしろい小説になるとは思っていなかった。このおもしろさは、独特な語りと構成からうまれている。

本書には3つの語り方がある。

死にそうになっている老人アルテミオ・クルスが一人称<わし>で語る、 「現在形(である)」の語り。

超越的な目線でアルテミオ・クルスを<お前>と二人称で呼ぶ、「未来形(だろう)」の語り。

そしてアルテミオ・クルスを<彼>と三人称で呼ぶ、「過去形(だった)」の語り。これらの視点と語りが、ぐるぐると入れ替わって進む。

一人称の語りは、息も絶え絶えな老人の混沌とした語りの中に、家族への見下しや冷淡さが見えて、「嫌味な老人あるある」でわかりやすい。三人称の語りも、スタンダードだ。

圧巻なのが、二人称の語りである。「お前は選ぶだろう」「お前は考えるだろう」と予言めいた声で語る声は、クルスだけが知っていることを知り、クルスが知らないことまで知っている。

繰り返しあらわれる「鏡」のモチーフによって呼び覚まされた分身、この超越的な声は、真夜中の遺跡で低い声でささやくメキシコの神々を彷彿とさせる。

<お前>と語る声は、クルスに向かって繰り返し「選択肢を選びとる」ことを語る。クルスが自覚していない人生の岐路において、クルスがなにを選んだのか、なにを選ばなかったのか、なにを得て、なにを失ったのか。

人は選び取ることはできない、選び取るべきではない、あの日自分は選び取ったのではない、とお前は考えるだろう。

お前の人生は、すべての人間のそれと同じように機の糸で織り上げられている。自分の人生を望みどおりのものにするチャンスは一度以上でも以下でもないだろう。人生 を望みどおりのものにするチャンスは少なすぎることも、多すぎることもないだろう。お前をのぞいてほかの誰もそのことを知らないだろう。お前が別のものでなく、あるものになるとすれば、お前がそれを選び取らざるを得なかったということだ。お前の選択は、可能なほかの人生を、選ぶたびに後方に残してゆくことになる。すべてを否定することではないだろう。ただ、お前の選択と運命がひとつに結びつけば、それだけお前の人生が薄っぺらになるということだろう。

 

 

この<お前>パートがなければ、アルテミオ・クルスの人生譚は、マチズモ金持ち老人の自意識と虚飾にまみれた自伝、あるいは三人称の人生サーガに留まっていただろうと思う。そう思うぐらい、私は二人称の語りが好きだ。

二人称の語りは、クルスの人生に重ね合わせて、メキシコの歴史をうたい上げているところもすばらしい。

「犯された母(チンガーダ)から生まれた子」という言葉を「民族の紋章、境界の防御、歴史の要約、メキシコの合言葉」と名指しして、先住民族の文明、スペインによって犯されたメキシコ、犯された母の子孫であるメキシコ人、植民地の文化、メキシコの大地がはぐくむ原風景といったメキシコの表象を、息の長い羅列で語りあげるところは圧巻だ。 

  赤い砂漠、トゥーナサボテンとリュウゼツランの生えている荒地、ノパールサボテンの世界、溶岩と凍った火口の続く地域、金色のドームと銃眼の開けられている石造りの城壁、石灰と切石の都市、火山岩の町、日干しレンガの家が立ち並ぶ田舎町、茅葺き屋根の小屋の建っている村落、黒い泥の小道、乾燥した土地につけられた街道、……マラリアと娼家で知られる港町、石灰を含んだリュウゼツランの鱗茎、水の涸れた川、金と銀の鉱山、文盲のインディオ、コラ族の原語、ヤキ族の言語……オアハカの硬玉、蛇の廃墟、黒い頭の廃墟、大鼻の廃墟、祭壇とその装飾、……ティオティワカン、パパントラ、トゥーラ、ウシュマルといった古い名、それらのものをお前は心に刻みつけている。

 

これは人生の岐路、選択の物語だと思う。クルスは人生の岐路において選択して、激動のメキシコを生き延びた。その後ろには、消えた選択肢、消えた誰かの命、消えた愛がある。

わしは生き延びた。レヒーナ。お前は何という名前だった? ちがう。お前はレヒーナだ。名もない兵士よ、お前はなんという名前だったのだ? わしは生き延びた。あんたたちは死んでしまった。わしは生き延びた。

 お前は心を決めて、道のひとつを選び取り、他の道をすべて犠牲にするだろう。選択する時、お前は自分を犠牲にするだろう、お前は自分がなり得たかもしれない他のすべての人間でなくなるだろう。お前は他の人間たちが、自分が選んだ時に切り捨てた人生を他の人たちーー他者ーーが生き抜いてくれればいいと思うだろう。その時、つまり何かを選び取るか、捨てるかした時、お前は自由と同じものである自身の願望ではなく、自分の利己心、恐怖、思い上がりがお前にひとつの迷宮を指し示すことになったのだ。

 わしはここまで独力で這い上がってきた。兵隊。ヤキ族の男。レヒーナ。ゴンサーロ。

 

岐路にたどり着いた時、多くの人はそれがそうだとは気づかない。気づいたとしても、選べるのはひとつだけだ。選んだ瞬間に他の選択肢は失われるが、失われた選択肢がどんなものだったのか、人類には知るすべがない。

だが、<お前>と呼ぶ声は知っている。人生という名の、暗闇での不可逆の選択の繰り返しを見つめている。思い出せ、追憶とともに生き延びろ、とささやいてくる。

悲哀と追憶と喪失に満ちた、メキシコ小説としか言いようがない、比類なき圧倒的なメキシコ小説だった。 

わしは選ぶ。彼は選んだ。お前は選ぶだろう。そして死ぬだろう。

お前は目を閉じてひと息つくだろう。しかし、見ること、願望することはやめないだろう。なぜなら、思い出すことによってお前は望むものを自分のものにするからだ。過去にさかのぼって追憶の世界に戻ることで、自分が望むものを手に入れるだろう。未来ではなく、過去に向かうことで、

追憶とは満たされた欲望である、

手遅れにならないうちに追憶とともに生き延びるのだ、

混沌にお前の記憶がはばまれないうちに。

 

愛、それ自身の中で枯渇してゆく共同の愛。お前は自分に向かってそう言うだろう。というのも、お前はその愛を経験したのに、その時はなにもわかっていなかったのだ。

 

 

アルテミオ・クルスの死 (岩波文庫)

アルテミオ・クルスの死 (岩波文庫)

 

 

カルロス・フエンテス作品の感想

 

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