『イタリアの詩人たち』須賀敦子|心に根を張った5人の詩人たち
おおよそ死ほど、イタリアの芸術で重要な位置を占めるテーマは他にないだろう。この土地において、死は、単なる観念的な生の終点でもなければ、やせ細った性の貧弱などではさらにない。生の歓喜に満ち溢れればあふれるほど、イタリア人は、自分たちの足につけられた重い枷ーー死ーーを深く意識する。彼らにとって、子は生と同様に肥えた土壌であり、肉体を持った現実なのである。
ーー須賀敦子 『イタリアの詩人たち』
夏休みに架空のヴェネツィアに立ち寄ってから、イタリアの路地裏を歩き続けて、須賀敦子のイタリアまでやってきた。
イタリアの詩人と須賀敦子は、古く深い関係にある。須賀敦子はイタリア文学の翻訳とエッセイで名高いが、彼女が日本に帰国してはじめて寄稿した文章は、イタリア詩人についての連載、つまり本書だった。
著者がイタリア在住時に愛読した詩人たちーーウンベルト・サバ、ジュゼッペ・ウンガレッティ、エウジェニオ・モンターレ、ディーノ・カンパーナ、サルヴァトーレ・クワジーモドを、訳詞をまじえて語るエッセイである。
あえて詩集ではなくエッセイと呼んだのは、詩の選び方や配置、読み方、語りが、どこまでも彼女のものだからだ。紹介する詩の選びかたが、もう須賀敦子なのである。 異国での孤独、悲しみ、喪失、呆然、死、恩寵、救済を待つ祈りと、彼女が本書以降に書き続けるテーマにそって詩が選ばれる。
摘みとった花と 貰った花との あいだには
言いあらわせぬ 無が
ーージュゼッペ・ウンガレッティ「永遠」
自らの静止状態にとじこもり、生への参加をあたまから拒否するかにみえる詩人モンターレは、しかし、芯からの厭世主義者ではなかった。たとえ自分とは隔絶した場においてはあっても、はるかな救済の可能性を、深く信じていたのだ。
ある日 締め忘れたドアのむこうの
中庭の樹々のあいだに
レモンの実の黄色がみえるとき
心の氷結が 不意に溶け
胸に音たてて迸る
彼らの うた
太陽の黄金の喇叭
ーーエウジェニオ・モンターレ「レモン」
本書を読んでいると、著者の「偏愛」とでも言うべき愛情、個人的な思い入れを感じる。本書でもっとも著者の思い入れを感じるのは、最初の詩人ウンベルト・サバだ。「詩人と一緒に詩人が描いた町を歩きたい」と語るのはサバだけで、著者は後にウンベルト・サバの詩集を訳出している。
すべての真の芸術作品とおなじように、サバの詩は、まんまと私を騙しおおせていたのに違いない。そして長いあいだ私のなかで歌いつづけてきたサバのトリエステは、途方もない拡がりをもつ一つの宇宙に育ってしまっていて、明るい七月の太陽のもとで、現実の都市の平凡な営みは、ただ、ひたすらの戸惑いをみせているにすぎないのだった。
ウンベルト・サバからはやわらかい愛情が、2番めの詩人ジュゼッペ・ウンガレッティを語る言葉からは、著者の作品につうじる「帰る家がない」悲しみと寄る辺なさが立ちのぼる。
すぐ また
旅に出る
難破に
行きのこった
老水夫
のように
ーージュゼッペ・ウンガレッティ「難破の愉しさ」
地球の
どこへ行っても
家に帰った
ということが
ない新しい
風土に
出あっても
すぐ
倦きてしまう
これも
いつか どこかで
嘗めつくした
という
記憶がまといつくおれは 外国人なのだ
と いつも 離れてしまう生まれたときから
垢にまみれた 時代
をいくつも負い続け一瞬でいいから
本来の
いのちを味わいたい と無辜の
国をさがしているーージュゼッペ・ウンガレッティ「放浪者」
ウンガレッティの評は静かだが強烈で、「『約束された土地』を夢みて瞑想にふける晩年のウンガレッティは、復活を信じて、自らの吐く白い糸で、薄明の繭に、このうえなく楽観的な幽閉を実現してゆく、哀しくて高貴な幼虫のいとなみを想像させる。」という文章にはうなってしまった。
続くエウジェニオ・モンターレ、ディーノ・カンパーナとともに、それぞれ須賀敦子の作品につうじるテーマが訳詞とともに語られる。
ただ最後の詩人サルヴァトーレ・クワジーモドだけはすこし異質で、「ノーベル文学賞を受賞した時に批判的な声が多かった」「彼の言葉を詩とは呼ぶまい」と、控えめさを残しつつも突き放して書いている。これまでの愛と親密さのある文章からすると、だいぶフルボッコ・アツコである。なかなかめずらしい。本書は雑誌連載をまとめたものだから、もしかすると連載時にいろいろあったのかもしれない(なにせクワジーモドはノーベル文学賞受賞者なのだ)。
詩というものは、ときどきどうしようもなく心に根をはって、自分の記憶や感情とまじりあって、ひとつの構築物となって心に残り続ける。
本書は、須賀敦子の心に根を張った詩人についての本、著者が心の奥から取り出したイタリア詩人たちを眺めながら語った本だ。だからイタリア詩人たちは、細い糸で著者の心につながっている。
本書を読むことは、詩人と詩について読むことであり、詩人から著者につながる糸を、アリアドネのようにたぐり寄せながら読むことでもある。
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本書にはバージョンがある。
須賀敦子全集の文庫版。ウンベルト・サバ詩集が同時収録。解説は池澤夏樹。
新装版。解説は堀江敏幸。
須賀敦子が愛した詩人で、本書で最初に名前があがった詩人。のびやかで、ゆるりとしていて、深呼吸のような読み心地で、なんども立ち戻りたくなる。
20世紀イタリア詩人の最高峰と呼ばれるウンガレッティ。全詩集とエッセイ、解説とウンガレッティ全部盛りで文庫とは、つくづく岩波文庫には恐れいる。