ボヘミアの海岸線

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『ハザール辞典』ミロラド・パヴィチ


 ハザール族とは、大昔に世界の舞台から姿を消した古い民族である。その諺のひとつに言うーー霊魂にも骸骨がある、それは思い出でできていると。

ーーミロラド・パヴィチ『ハザール辞典』

幻の王国、奇想、召喚魔法

セルビアの作家ミロラド・パヴィチは、中世に生きていたらまちがいなく錬金術師か魔術師になろうとしていただろう。彼の作品は「召喚魔法」である。実在した幻の国、架空の物語、悪魔、転生する人間たちの物語という点と点とつなぎあわせ、巨大な「世界」を召喚しようとする。


ハザール事典 女性版 (夢の狩人たちの物語) (創元ライブラリ)

ハザール事典 女性版 (夢の狩人たちの物語) (創元ライブラリ)

 

ハザール事典 男性版 (夢の狩人たちの物語) (創元ライブラリ)

ハザール事典 男性版 (夢の狩人たちの物語) (創元ライブラリ)

 



あの畝が見えるかね。あれは鋤で掘った畝じゃない。あれは犬の吠え声でできたものだよ……。

 実在する謎多き古代王国ハザールをモチーフにした辞典小説である。この時点で考古学に憧れた人間としては血湧き肉躍るが、作者はハザールの謎を下敷きにしつつ、奇想をふくらませて「魔法の国ハザール」を作り上げる。


人間の行動は、お料理のようなもの、思想や感情は調味料なの。さくらんぼにお塩をかける人も、お菓子にお酢をかける人も、将来、ろくなことになりはしない……。

本書の楽しみ方は3とおりある。まず、奇想を楽しむ。ハザールにまつわる人たちは謎の習慣と考え方を持っている。不死身の王女アテー、自分の乳を有毒にできる乳母、毒が仕込んであり読むと必ず絶命する書物、時空を超えて口の中に飛ばされる鍵、時間を生むニワトリ、失われたハザール語の余韻を鸚鵡の鳴き声に見いだす研究……。


ハザールの首都イティルには特定の場所があり、そこで行き遇うふたリは、たとえ他人同士でも、生命と運命を交換し合うことができる。それは、いわば、帽子をとりかえっこするような塩梅にである。

 こうした奇想エピソードは楽しいものだが、奇想だけを当てにしているとだんだん混乱してしんどくなってくる。

2つめの楽しみ方は「パズルの解読」だ。登場人物は誰かの生まれ変わりだったり、人間のふりをした悪魔だったり、夢の中で<夢の狩人>として運命に干渉しあったりする。

 しかし、誰が誰の生まれ変わりなのかは、全部を読み通さないとわからない。本書は複雑な構成で、ハザールが存在した8〜9世紀、ハザール研究の資料が豊富だった17世紀、資料が失われた20世紀と3つの時空を横断し、さらにユダヤ教、キリスト教、イスラム教と、3つの宗教の章がある。そのため時間軸ごとに、登場人物、その人物の身体的特徴と特技を書い留めておく必要がある。対応表を作りながら読んでいくと、20世紀まで来た時に「こいつか!」との驚きを味わえる。


好機の到来を待っているのです。それにわれわれ悪魔は、人間の後ろからしか進めない。サタンの仲間の歩みは、人間の歩いた後しか踏めない。もしも、あなたかそれともあなたの子孫のだれかが、そうすれば、われわれは週のある日、きっとあなたがたに追いつく、その曜日を口に出すわけにはいかないが。

最後の楽しみ方は「なぜ夢の狩人とサタンは転生を繰り返しているのか」「目的は何か」という「世界の謎解き」だ。サタンは3世紀をかけて「好機の到来を待っている」という。その好機は20世紀にやってくる。夢の狩人、魔術師パヴィチは何を召喚したかったのか? 


これまでに人という人の見た夢を残らず集めて組み立てるとしたら、一大陸全体ほどの巨大な人間ができあがるに違いない。

『ハザール辞典』は多様な楽しみ方があるが、私としてはこの「世界の謎解き」が面白かった*1

細かい物語の断片を組み合わせる作業はかなりの集中力とチョコレートを必要とするが、魔術はだいたい準備と構築が面倒くさいものだ。パヴィチの魔術は明るくさっぱりしているので、読み終わった後にぐったりしないところがいい(東欧の魔術ものは闇が強くてぐったりするものもある)。

なお、 『ハザール辞典』は男性版・女性版があるが、違いはわずか10行で、物語にクリティカルな影響を与えるものではないから、どちらを読んでもいいし、両方を買う必要はない(私は女性版で読んだ)。神話、宗教学、世界論、文化人類学が好きな人のための魔術小説。 

Recommend: 召喚魔法を使う小説

東欧は魔術のお膝元。魔術都市プラハで物語の魔法陣を組み上げる。

南米の魔術師ボル爺が、物語で過去を召喚する。


神曲 地獄篇 (河出文庫 タ 2-1)

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 初恋の人に会って罵られるためだけに、天国・煉獄・地獄という途方もない伽藍を作ってしまったダンテのキレっぷりを見よ。


ハザール 謎の帝国

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実在した方のハザール。たぶんパヴィチが描くほど毒好きじゃないとは思う。


魔女 第1集 (IKKI COMICS)

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 世界観が似ていると思った。本当の秘密は、永遠に秘密のまま。

 

 

第45回読書部 ミロラド・パヴィチ『ハザール事典』 | uporeke.com

uporekeさん主催の読書会まとめ。登場人物の対応表があるが、思いっきりネタバレなので、後半で混乱してきてきてしかたがない時のみに使うことをおすすめする。

Milorad Pavić "Хазарски речник / Hazarski rečnik" "Dictionary Of The Khazars", 1984.

*1:ハザール人の世界観、神と人間の関係は「マスーディ、ユースフ」の章によくまとまっている。