『夜毎に石の橋の下で』レオ・ペルッツ
一同が静まったところで高徳のラビは告げた。汝らのうちに、姦通の罪を負って生きる女、呪われた一族、主によって滅ぼされた一族の子がいる。罪人に告ぐ、進み出で己が罪を告白し、主の裁きを受けるがよい。――レオ・ペルッツ『夜毎に石の橋の下で』
プラハの魔法陣
ナスカの地上絵は、地上から見ればただの直線、意味をなさない溝でしかない。だが、もしナスカ人に首根っこをつかまれて上空数千メートルにまで放り上げられたら、巨大なコンドルや猿の姿に息をのむだろう。
『夜毎に石の橋の下で』でも同じことが起きた。読み終わった瞬間、眼前に広がったのは巨大なプラハの魔法陣だった。読んでいる最中は地面を歩いていたのに、最後の最後でぽーんと放り上げられる。
- 作者: レオ・ペルッツ,垂野創一郎
- 出版社/メーカー: 国書刊行会
- 発売日: 2012/07/25
- メディア: 単行本
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本書におさめられた15のエピソードは、どれも独立した短編小説の佳品として楽しめるが、読み進めるうちに、物語の点がつながって別の文様を描いていることに気がつく。その形はなかなか見えないが、最後まで読み終えたとき、魔法陣の円環は閉じられる。魔法陣から浮かび上がってくるのは、錬金術と魔法がうごめくプラハの町並みとそこに生きた人々の悲喜こもごも、それらが時空を超えて現代までたどりついたかと思えば、かき消える。
その頃は――いまでもそうだが――磔刑像や聖者像は何百となく、プラハの町のあらゆる広場や壁龕や街角で、あるいは教会や施療院や貧民救済所の前で、それからあの石造りの橋の上で、苦難を身に負い、祝福を与え、悪魔を祓っていた。
舞台は16世紀の魔術都市プラハ。ボヘミア王であり神聖ローマ帝国皇帝でもある、ルドルフ2世の治世下である。
ルドルフ2世は、狂王として歴史的に知られている王だ。弟マティアスとは「ハプスブルグ家随一」と称されるほど仲が悪く、弟の陰謀におびえ続けて一生を過ごした。ルドルフ2世は政治家としては無能であったが、文化や芸術に理解があり、錬金術やカバラなどに精通していた。彼は、ジュゼッペ・アルチンボルドやヨハネス・ケプラー(本書には彼も登場する)などのパトロンをつとめ、ヴォイニッチ手稿を購入したことでも知られている。
さらに、「金に愛された」といわれるユダヤ人の大富豪モルデカイ・マイスル、ゴーレムの作者である偉大なラビ・レーウなど、ユダヤ文化における歴史的な実在人物たちが登場する。彼らが同時代に生きていたということ自体がひとつの大いなる驚異であり、なみなみならぬ因果律を感じる。
- ルドルフ2世:1552-1612(Wikipedia)
- ラビ・レーヴ:1525-1609(Wikipedia)
- モルデカイ・マイスル:1528-1601(Wikipedia)
ひとりだけでも物語がなりたつような伝説的な人々が同じ時代、同じ町にいたという事実に驚嘆する。彼らはきちんと対面することはいちどもないが、幼年時代から老年時代まで、現実と幻をまたぎながら互いの人生に影響を与え続ける。それはまるで、接触はしないものの、引力で互いをつなぎとめあう衛星に似ている。そして、3人の魔術師たちのまんなかに立つのは、うるわしき女性エステル。彼女は誰よりも非力だが、誰よりも世界に影響を与える女だった。彼女が夢を見たせいで、ユダヤ人街に恐ろしいペストの風が吹き荒れることになるのだから。
最初のエピソード「ユダヤ人街のペスト禍」では、ペストの原因について、いちおうの謎解きがおこなわれるが、これでわかった気になってはいけない。わたしも最初は「ちょっと風変わりなエピソードだな」ぐらいにしか思わなかった。だが、ラストまでたどりついた後にこの章を読み返したとき、謎めいた言葉が示していた意味がわかる。
たった数行の事実の背景には、男と女の葛藤と愛があり、数十年におよぶ因果律があり、秘密があった。しかし、初読時には見逃してしまう。そして、ほとんどの登場人物たちも、因果関係には気がついていない。おそらく人生とはこういうものなのだ。
「だから君もわかるだろう。ギムナジウムの歴史の先生や学生用歴史教科書の執筆者は、揃いも揃って何も知らず、何もわかっていないことを。……おかげでボヘミアは自由を失い、オーストリア領になってしまった。……それもこれもみな、ペトル・ザールバ下宿屋のかみさんがつくるボヘミアのパンケーキやシチューに飽き足らず、もっと贅沢なものを望んだからで、そのため皇帝の食卓についたからなんだよ」――「皇帝の食卓」
卓越した想像力は、錬金術の公式に似ている。ないものをあるように見せかける、あるいは“あることにする”のは、魔術師の仕事だからだ。レオ・ペルッツはいくつかの無味乾燥な事実をつなぎあわせて、物語の魔法陣を構築した。
端正な構築式でうみだしたものが、不可解で理論が通用しない「愛」についての物語だったことは、興味深い。恥ずかしいほどにロマンティックだが、魔術師はおうおうにしてロマンティストである。偉大なる大魔術師ダンテなどは、初恋の人に振られるためだけに、天国と煉獄と地獄を構築したのだから。
天使もぼやいている。
「お前たち人の子は、なんという哀れなものだ。お前たちの生は悩みと苦しみに満ちている。そのうえなぜ愛などに煩うのだ。分別を失い、心を惨めにするだけだというのに」
収録作品(気に入った者には*)
- ユダヤ人街のペスト禍**
- 皇帝の食卓*
- 犬の会話*
- サラバンド**
- 地獄から来たインドジフ
- 横取りされたターレル銀貨
- 夜毎に石の橋の下で*
- ヴァレンシュタインの星**
- 画家ブラバンツィオ***
- 忘れられた錬金術師
- 火酒の壺
- 皇帝の忠臣たち***
- 消えゆくともし火
- 天使アサエル
- エピローグ
Leo Perutz "Nachts unter der steinernen Brucke.",1953.
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- グスタフ・マイリンク『ゴーレム』…ラビ・レーウが作ったとされる「ゴーレム伝説」からねじまく幻想。
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- ホルヘ・ルイス・ボルヘス『創造者』…人間嫌いに見えるが、人生の最後に「私の人生は愛に満ちていた」と語った、20世紀の魔術師。
- 澁澤龍彦『夢の宇宙誌』…澁澤は狂王ルドルフを愛した。
- グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』…ルドルフ2世時代のプラハ、アルチンボルドについて。
- 『魔術の帝国 ルドルフ二世とその世界』…歴史から見る、ルドルフ2世時代のプラハ。表から見た「プラハ」。