『ヘンリー六世』ウィリアム・シェイクスピア
ああ、栄華も権勢も、しょせんは土と埃にすぎぬのか?
人間、どう生きようと、結局は死なねばならぬのか?——ウィリアム・シェイクスピア『ヘンリー六世』
足を踏みならして貴族と王族が輪になって踊っている。それは権力争いの踊りで、踊り手は増えては消えていき、赤黒い血に染まった足跡だけがぐるぐると重ねられていく。輪の中央にはイングランド王ヘンリー六世が立っているが、誰も王には触れようとしない。偉大だからではない。どうでもいい存在だからだ。王は守られ、真綿でくるまれ、丁重に無視された。中央にいながらにして疎外された王、ヘンリー六世の一代記。
血まみれの王冠
- 作者: ウィリアム・シェイクスピア,小田島雄志
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『じゃじゃ馬ならし』ウィリアム・シェイクスピア
ペトルーチオ
おれはきみを飼いならすために生まれた男だ、ケート、
山猫ケートを飼い猫ケートに変えてだな、ケート、
おとなしくかわいがられる女房にしてやるぞ、ケート。——ウィリアム・シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』
交換可能の愛と属性
『じゃじゃ馬ならし』はシェイクスピアが初期に書いた恋愛喜劇のひとつだが、他の恋愛喜劇とは一線を画す奇妙さがある。3組のカップルが誕生するものの、この劇でおこなわれるのは恋心の交感ではなく、身分や容姿、貞淑さや持参金といった財産の交換である。
本劇で描かれる理想の妻とは、夫の意思に従順に従い、ひれふし、「私の君主」と敬う女性のこと。この理想の妻に、男たちは愛や求婚という対価を支払おうとする。そういう意味では、この劇は恋愛模様を描いた『から騒ぎ』や『お気に召すまま』よりは、等価交換を主題とした『ヴェニスの商人』に近いかもしれない。
- 作者: ウィリアム・シェイクスピア,小田島雄志
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『トロイラスとクレシダ』ウィリアム・シェイクスピア
サーサイティーズ:なにもかもごまかしのまやかしの悪だくみだ。ことの起こりは間男と淫売女じゃねえか、いがみあい、徒党をくみ、血を流して死んじまうには、ごりっぱな大義名分だ。そんな大義名分なんかかさぶたにでもとっつかれるがいいんだ、戦争とセックスでなにもかもめちゃくちゃになるがいいんだ。
——ウィリアム・シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
化けの皮をはがす
男と女の名前がある。物語の舞台はトロイ戦争である。ならば戦争に翻弄される恋人たちのロマンスなのか、と思いきや大間違い。そんな甘いプロットなど横面を張り飛ばしてくれると言わんばかりの、苦い苦い物語。
- 作者: ウィリアム・シェイクスピア,小田島雄志
- 出版社/メーカー: 白水社
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『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ
波音は、たいていは控えめに心を和らげるリズムを奏で、夫人が子どもたちとすわっていると、「守ってあげるよ、支えてあげるよ」と自然の歌う古い子守唄のようにも響くのだが、また別の時、たとえば夫人が何かの仕事からふとわれにかえった時などは、そんな優しい調子ではなく、激しく太鼓を打ち鳴らすように生命の律動を容赦なく刻みつけ、この島もやがては崩れ海に没し去ることを教えるとともに、あれこれ仕事に追われるうちに彼女の人生も虹のように消え去ることを、あらためて思い起こさせもするのだった。
ーーヴァージニア・ウルフ『灯台へ』
私はここにいた
「灯台」という存在が好きだ。実際に灯台に足を運んだことはほとんどない。おそらく私は建造物としての灯台ではなく、灯台が持つ独特の雰囲気、象徴としての灯台に惹かれているのだろう。「私はここにいる」「そちらはどうか」と光を放つストイックさ、孤独の距離感が、星や人の営みに似ている気がするからだ。
- 作者: ヴァージニアウルフ,Virginia Woolf,御輿哲也
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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『新ナポレオン奇譚』G.K.チェスタトン
「ひげ剃りですか、旦那?」芸術家は店の中から尋ねた。
「戦いです」とウェインは、戸口に立ったまま答えた。
「何ですって?」と鋭く相手は言った。
「戦いです」とウェインは、熱をこめて言った。——G.K.チェスタトン『新ナポレオン奇譚』
狂った世界の肯定法
イギリス紳士め、とチェスタトンを読むたびに思う。ユーモアを愛し、シニカルに世界を笑いながら、哲学や神学を大まじめに語る。デビュー作でもその態度は変わらない。チェスタトンはどこまでいってもチェスタトンであった。
今から80年先のことを想像するとしよう。メーヴェをみんなが乗り回して、ドラえもんのマジカルな道具が実現しており、脳がWebにつながっているかもしれない……なんて私のお粗末な妄想は置いておくにしても、80年先の未来を普通は「進歩した未来」として想像する。しかし、1904年のチェスタトンは、80年後のロンドンを「中世に逆戻り」した世界として描いた。
- 作者: G・K・チェスタトン,高橋康也,成田久美子
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2010/07/07
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『冬物語』ウィリアム・シェイクスピア
[その名を時という]
William Sharekspeare The Winter's Tale,1611?
- 作者: ウィリアム・シェイクスピア,小田島雄志
- 出版社/メーカー: 白水社
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時 ある人々に楽しみを与え、すべての人々に試練を課し、善人の喜びともなれば、悪人の恐怖ともなる私、間違いを起こしたり解きほぐしたりする「時」と名乗って翼を使わせていただきます。
最近めっきり冷えこむので、洋風おでんをつまみながら『冬物語』。なんて安易な。
四大悲劇を書きあげた後シェイクスピアは、ロマンス劇と呼ばれる悲喜劇を残した。本書もまたそのひとつ。
シチリア王リオンティーズは、幼いころからの親友であるボヘミア王ポリクシニーズが、自分の妻ハーマイオニーと浮気しているという妄想にとりつかれる。これは、妻の浮気を疑って破滅した『オセロー』と同じ展開だが、シチリア王は「浮気現場をこの目で見、この手で触れた」と断言する。
もちろん、それは真実ではない。ただ、誤解でもない。シチリア王は、ただ妻とボヘミア王が親しげに話をしているのを見ただけで、「やつらはキスをした」「脚と脚を触れ合わせた」ことを本気で目撃したと思いこむ。オセローの耳に疑惑の猛毒をそそいだイアーゴーのような役は、本劇では登場しない。
この猛烈な思いこみぶりはなかなか異常で、唐突な印象を受ける。冒頭、シチリア王がボヘミア王をこれでもかというぐらい歓待するからなおのこと。思うに、シチリア王の心にはボヘミア王に対する嫉妬心がくすぶっていて、小さなきっかけで一気に爆発したのではないか。だから、「妻子が死んだ」と聞かされた瞬間、あれほど狂気にひたっていた王が「私が間違っていました」と改心するのを見てもうさんくさい。それはただ単に、嫉妬にふたをしただけではないか? 男は男へ嫉妬する。女の存在は、必然ではない。
これが悲劇だったなら、話はここでおしまいになって、シチリア王は破滅する。だけど、これはロマンスだ。『冬物語』には四大悲劇には登場しなかった良心、ポーリーナがいる。彼女は貴族の妻で、王妃の無実を信じて彼女をかくまい、王に「あんたは馬鹿だ」と堂々とのたまうすごい女性だ。彼女のはたらきのおかげで、16年後に悲劇はハッピーエンドをむかえる。
ロマンス劇は、もし悲劇の舞台に良心を持つ人があったら……という「別の道」の提示なのかもしれない。同じ環境、同じ要因、同じ悲劇的要素でも、そこに配置される人によって歴史は変わる。この勝気でおせっかいな女性ポーリーナが、悲劇とロマンスのの転換スイッチをにぎっている。
「止まっていた時が動き出す」、その瞬間を劇的に描いた作品なのだろうかと思った。「時」がひとつの人格としてセリフを話し出すシーンには驚いたが、この扱いがこの劇での「時」の重要性を示しているような気がする。人は、誤解や傷を修復するまでに、長い長い時間を必要とする。時は残酷で、そして慈悲深い。
彫像が命を吹き返して動きだした瞬間、凍っていた時はついに動き出す。凍り死んでいた長い冬が終わりを告げ、やがて春が来るような、再生を思わせる作品だった。
recommend:
シェイクスピア『シンベリン』……悲劇に足りなかった良心という存在。
『オレンジだけが果物じゃない』ジャネット・ウィンターソン
[母は狂信者]
Jeanette Winterson Oranges Are Not the Only Fruit,1985.
- 作者: ジャネットウィンターソン,Jeanette Winterson,岸本佐知子
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- 作者: ジャネットウィンターソン,岸本佐知子
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先生は、状況と先入観でしかものを見ようとしない。こういう場所にはこういういものがあるはずだと、人は先入観で決めつける。丘に羊、海には魚。もしもスーパーマーケットに象がいたら、先生の目には見えないか、さもなければ、あらジョーンズの奥さんとおか何とかいって、魚のすり身の話でもはじめるんだろう。
子供時代は「絶対的ななにか」を無邪気に信じられる、不幸にも幸福なつかのまの時だ。少女にとって絶対的なものは母親であり、母親が熱狂的に愛する神であった。いや、母親が絶対的な存在でない子供などいるだろうか? 母親が正しいと言うものは正しいし、悪いものは悪い。オレンジだけが果物だと言われれば、子供はオレンジをかじる。
半自伝的なデビュー作『オレンジだけが果物じゃない』において、ジャネット・ウィンターソンは「本当にこれが自伝なのか」と疑いたくなるぐらいの非日常的な少女時代を描いている。
母親は熱心な信者で、少女ジャネットは母から「お前は伝道師になる定めの選ばれた子。世界を救え」と教えられて育つ。まず、この設定にびっくりさせられるが、これはあくまで序の口にすぎない。母親の教育はとにもかくにも力強い。教科書は聖書で、異教徒どもと戦うのが日課だ。この猛烈な存在感の強さは、『さくらんぼの性は』に出てくる「犬女」を思い起こさせる(どちらもジャネット・ウィンターソンの養母をモデルにしているらしい)。「終末はもうすぐそこよ」とか「異教徒ども!」とか「精霊に満たされているわ!」とか、非日常な会話が日常となっているから、当然のことながらジャネットは他の子供とずれて育つ。
それでもジャネットは、母親の過ちを知るまでは、学校で浮いても「お前の母親は狂っている」と揶揄されても、それなりに幸福だった。自分の信じる世界は失われていなかったから。だが、ジャネットが女性を愛するようになってから、この閉じた幸福な世界は崩壊する。世界の中心だった母親を「精神的な売女」と言わずにいられなかったジャネットの心を思うと切なくなる。絶対的な正しさなどないと知った時、少女は絶望の塩をなめて大人へと転落する。
愉快だが、つらい話だ。ジャネットは、ずっと心のよりどころだった場所を失い、家族と決別し、同性愛者という社会的マイノリティとして生きていくことを決めた。あるひとつのちょっと異常な、でも幸福だった世界が崩壊する、これは世界の終わりの話なのだと思う。程度の差こそあれ、幸福な子供時代の終わりは誰にとってもこんな風にやってくるのかもしれない。
それでもなんとなく重苦しい感じにならないのは、ユーモアを交えた軽妙な語り口、そしてしたたかに生きていくジャネットの姿に心救われるからだと思う。夢の欠片を踏みしだきながら、少女は世界の向こう側へと歩く。しかし、これが自伝だということに、何度思い返してもしみじみ驚いてしまうよ。
人間、だれしも自分を悲劇の主人公だと思いたがる。わたしだって、例外ではない。
ジャネット・ウィンターソンの作品レビュー:
『さくらんぼの性は』
recommend:
フラナリー・オコナー『賢い血』…「キリストのいない教会」を説く狂信。
ジッド『狭き門』…潔癖な男女関係という狂信。
『アントニーとクレオパトラ』ウィリアム・シェイクスピア
[折れ剣の英雄]
William Sharekspeare Antony and Cleopatra,1606-07.
- 作者: ウィリアム・シェイクスピア,小田島雄志
- 出版社/メーカー: 白水社
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アントニー:おまえは知っていたはずだ、おまえがどこまでおれを征服したかということを、またおれの剣が愛ゆえにもろくなり、なにごとであれ愛の言いなりになることを。
剣を捨てた英雄は、女のやわらかな手を取った。落ちぶれた英雄と哀れな女王が死に至るまで。
シェイクスピアが描く、熟年カップルのロマンス劇。『ロミオとジュリエット』『から騒ぎ』『十二夜』など、シェイクスピアの恋愛劇といえば若者が多く登場する印象だが、アントニーとクレオパトラはそれぞれ結婚しているため、他の劇とは少し印象が異なっている(もっとも、熟年と言えるほど年は取っていないのだが)。
かつて勇猛果敢な英雄として名を馳せたアントニーは、エジプトの女王にして絶世の美女、クレオパトラに出会ってから、すっかり骨抜きになってしまう。彼らはお互いのことしか見えておらず、2人だけの蜜月を楽しむ。
若者の恋ならそれでもいいだろう。だが、彼らはすでに社会的な地位を得ていて、一挙一動に影響力を持っていた。ローマの執政官であったアントニーは政治を顧みず、クレオパトラは権力を使ってアントニーをエジプトに留まらせた。当然このことを快く思わない人間はたくさんいるわけで、ローマ執政官のオクテイヴィアス・シーザーとレピダスは、ついにアントニーをローマに呼び戻して、別の妻を与えようとする。
若者だったら「そんなのはごめんだ!」といってしゃにむに飛び出していきそうなものだが、政治的な事情を汲み取る大人なアントニーは、妻を娶ることを選択する。とはいえ、愛しいエジプトの女王を忘れられるはずもなく……。
クレオパトラは純情さもすごいが、アントニーのデレっぷりもすごい。『ロミオとジュリエット』に比べると、恋の盲目ぶりやみずみずしさは比べるまでもないが、人生経験を積んだ男女ならではの関係はそれなりに興味深い。アントニーとクレオパトラ、両者は恋の激情と政治的な冷静さを併せ持っている。そのためか、感情表現にかなり起伏があって、劇全体としては途切れがちな印象を与える。特にアントニーは、クレオパトラを猛烈に賛美したかと思えば「売女」と罵り、はたまた土下座する勢いでひれ伏したりと、いろいろ忙しい(更年期障害?)。
賛否両論の英雄と言えば、『コリオレーナス』を思い出す。コリオレーナスは、愛に生きて剣を捨てたアントニーとは正反対で、愛なき剣を振るい続けた。どちらも確かにかつては英雄だった。だが、結局は賛否両論の末「これでは英雄にならぬ」と死に追いやられる。
ならば、「英雄」という存在は何なのか? 人の賞賛に値する美点を持つ人、褒め称えやすい人、欠点が見えない人、皆が望む時に望む動きをする人。またの名を幻覚、神殿に祭り上げられる飾りもの。皆が望んだように行動しない英雄はもはや英雄ではなく、なまじ力を持つがゆえに葬り去られる運命にある。なんと哀れな存在。
個人的には、割り切れない英雄としては、『コリオレーナス』の方が好きだった。
recommend:
シェイクスピア『コリオレーナス』……愛なき戦を繰り返す英雄。
映画「シーザーとクレオパトラ」……シェイクスピアに対抗して、バーナード・ショーが脚本を書いた。
『コリオレーナス』ウィリアム・シェイクスピア
[目的なき英雄]
William Sharekspeare The Tragedy of Coriolanus,1623.
- 作者: ウィリアム・シェイクスピア,小田島雄志
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コリオレーナス:ああ、そんなことがおれにやれるか! おれの真実をみずから汚し、からだの動きを1つ1つもって消し難いいやしさを心に教えるようなことが!
高潔な英雄か、はたまた傲岸な堅物か? コリオレーナスの心を読みきれない。
ローマの英雄 コリオレーナスの一生を描いた、シェイクスピア後期の悲劇。それなりの厚さであるはずなのに、最初から最後までコリオレーナスの性格や信条が分からなかった。言っていることははっきりしているし、行動もしているのに、その動機がさっぱり読めない。この人物描写はいったい何なのだ?
コリオレーナスはヴォルサイ人との戦いで他者の追随を許さない功績を挙げ、国と市民から「英雄」と讃えられる。執政官に推挙されたコリオレーナスは、役職に就くために「市民に好かれる」必要があった。しかし、彼は市民を「あんな奴らは何も考えていないクズだ」と悪しざまに罵り、彼らを敵に回してしまう。市民との対立をこれ幸いとばかり、コリオレーナスの活躍を快く思わない護民官たちが、「媚びない英雄」追放の罠を張りめぐらせる。
本劇に出てくるほとんどの人は、「何も考えていない」気がする。まず、「市民」。ローマという国で重要な立場である市民は、何も考えていない愚鈍な人々、オルテガをはじめとする社会学者が「大衆」と呼んだ人々、啓蒙教化の対象として描かれる。彼らは気まぐれに支持者を変え、状況が変わると手のひらを返したように自説をひっくり返す。「大衆」というカテゴライズや言説には食傷気味だが、政治などで付和雷同する人たちは確かに存在する。そんな市民という存在を、コリオレーナスは唾棄すべき存在として忌み嫌った。彼らのために頭を下げたり媚びたりするのはもってのほかと言い放ち、市民を罵倒した。
だが、コリオレーナス本人も、実はあまり何も考えていなかったのではないか? 「民衆など嫌いだ。媚びる人間も嫌いだ」という明確な意思はあった。しかし、ならばコリオレーナスは何のために敵と戦ったのだろう? のちに敵側に寝返って民衆を殺しまくるような人間だ。「民衆を守るため」なんて動機は欠片もなかったに違いない。地位のためでもない、姦計めぐらす国政のためでもない。おそらく、コリオレーナスは「戦いのために戦った」。
「目的なき英雄」、力はあるが目指すものを持たない“空っぽ”な指導者。いつ暴発するか分からない戦車のようなものだ。こんな存在はやはり怖い。コリオレーナスを暗殺しようとした人々の恐怖は、あながち間違っていなかったのかもしれない。
コリオレーナスという人物を、ある人は「この世に生きるには高潔すぎる」と評価し、ある人は「恐ろしく傲慢で、平民を愛してはいない」と評価した。本当はどちらだったのだろう、と考えることはおそらく意味がない。人間という不可思議な存在を、一言で言いきろうとするのがどだい無理なのだ。こういうもやもやした人物を描くことについてはシェイクスピアは天才的だとあらためて思った。
誰もがあまり何も考えていない、考えなしの王国。だが、世界はこれまでもこれからも、そういうものかもしれない。国が破綻しても、土地はそこにあるし、人は生きて、地球は回り続ける。
シェイクスピア作品の中では「特異な作品」として位置づけられているようだが、私はけっこう好きだった。
recommend:
トーマス・ベルンハルト『消去』…潔癖すぎるがゆえに人を軽蔑する。
オルテガ『大衆の反逆』…「大衆というものは、その本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなど及びもつかない」
『シンベリン』ウィリアム・シェイクスピア
[シェイクスピア的どたばた]
William Sharekupeare Cymbeline,1610s?
- 作者: ウィリアム・シェイクスピア,小田島雄志
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ポステュマス:おれは死ぬのがうれしいのだ、おまえが生きたがる以上にな。
牢番1:まったくな、眠っちまえば歯の痛みなんか感じないからな。
シェイクスピアは『オセロー』で嫉妬を、『ロミオとジュリエット』ですれ違いの悲劇を、『リア王』で妄録した老王を描いた。これらの要素をまるっと1つの鍋にぶち込んで、喜劇要素とハッピーエンドをぱらぱら振りかけて煮込んだら、きっと『シンベリン』ぽいものになるかもしれない。
シェイクスピア後期の、どたばたロマンス劇。「すれ違いから来る恋人の嫉妬」「生き別れた兄弟の再会」「権力闘争」「外国との戦争」「うっかり仮死」「男装の麗人が大活躍」など、これでもか! というほど「シェイクスピア的要素」が入っている。正直、つめこみすぎではないかと思うぐらいだ。
あらすじ。ブリテン王シンベリンの娘イモージェンが、幼馴染のポステュマスと結婚する。ところがシンベリンはイモージェンを義理の息子クロートンと結婚させようと思っていた。怒った王はポステュマスを追放し、恋人たちは離ればなれになる。イモージェンはポステュマスの愛を疑わないが、ポステュマスはイモージェンが浮気をしたと勘違いし、彼女を殺すよう下男に命令する。イモージェンは、ポステュマスが自分を疑っていることを知り、下男に「どうぞ殺しなさい」と突きつける。
ポステュマス:……男には悪に傾き気持ちはない、それは、はっきり断言するが、
女の性情だ。たとえば、嘘をつく、これはどう考えても
女だ、おべっかを言う、女だ、人を欺く、女だ、
情欲、淫らな思い、女だ、女だ、復讐心、女だ、
野心、貪欲、さまざまな形をとる虚栄心、侮蔑、
がつがつした物欲、悪口、移り気、その他
ありとあらゆる欠点は、いや、地獄で知られている
すべての悪徳は、半分というより全部、女のものだ。
イモージェン:ごらん、わたしの抜いたこの剣を。これをとって、ひと思いに、この純白の愛の館を、わたしの胸元を、お突きなさい。
遠慮することはない、なかはからよ、入っているのは悲しみだけ。
『シンベリン』というタイトルだが、シンベリン王は作品中では空気である。最後、すべての謎や勘違いが解けるときにシンベリンは「ああ、この話を聞き終えるのはいつになるのだ!?」と感極まって叫んだ。彼が最も輝いていた(そして私が共感した)瞬間である。
この話の立役者はなんといっても、イモージェンとポステュマスという2人の主人の間に挟まれ、両者のすれ違いをどうにか直そうとする下男ピザーニオだろう。四大悲劇には、ピザーニオという良心が足りなかった(一番気苦労が絶えない役ではあるが)。
個人的には、馬鹿さと素直さが同居している、ダメ息子クロートンが印象的だった。「僕はあの女を愛している、そして憎んでいる。あの女は誰よりもすばらしいが、僕を馬鹿にするから」って、なかなか素直に言えないと思うのだよね。
『オセロー』『ロミオとジュリエット』は、救いもなく破滅まっしぐらだったので、今回はどうにかなってよかったとは思う。しかし、やはりバッドエンドが持つ迫力やすさまじさには欠けるし、話があちこちに飛びすぎな嫌いはある。どうやら共作の疑いもあるらしい。「シェイクスピアにしてはできが悪すぎる」という批判もどうかと思うのだが、確かにいろいろこんがらがる作品ではあった。
recommend:
スティーブ・エリクソン『Xのアーチ』…錯綜するプロット。
『アレクサンドリア四重奏』ロレンス・ダレル
[愛、この一言が]
Laurece Darrell The Alexandria Qualtet,1957-1962.
- 作者: ロレンス・ダレル,高松雄一
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- 発売日: 2007/03/17
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- 作者: ロレンス・ダレル,高松雄一
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2007/05/20
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- 作者: ロレンス・ダレル,高松雄一
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- 作者: ロレンス・ダレル,高松雄一
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ぶ厚い4冊のハードカバーの最後の巻、最後のページ、最後の一文を読んだ後、一息ついてから序文を読み返した。
この4巻の小説群は、『アレクサンドリア四重奏』の総称のもとに単一の作品として読んでもらうことを意図している。内容にふさわしい副題をつけるとすれば「言語連続体」となろうか。私はこういう形態を明確にするために、ごく大まかな類比として相対性理論を選んだ。 ――序
多くの科学者が嫌がるのを承知のうえで「相対性理論」を文学に持ち込むなら、「時空と空間は見る者の立ち位置によってその姿を変える」ということだろう。「世界は主観的にしか語れない」「この世に真の“客観”は存在しない」ことを、ロレンス・ダレルはテーマにしたのだろうか。
物語の構造について。『アレクサンドリア四重奏』は、「ジュスティーヌ」「バルタザール」「マウントオリーブ」「クレア」の4冊から成る「重層構造」小説だ。「ジュスティーヌ」から「マウントオリーブ」までの3巻は、同じ出来事を違う人の目線から語り、巻が変わるたびに新しい事実が発覚する。
舞台はイギリス領エジプト、アレクサンドリア。「ジュスティーヌ」の語り手はダーシーという作家で、メリッサという恋人を持ちながら人妻ジュスティーヌに激しい恋をしていた。ダーシーは、ジュスティーヌとの情事や恋の苦悩について、孤島で記録を書きつづる。
ところが「バルタザール」では一転する。典型的なダメ男ダーシーの独白について、「君の物語は嘘に満ちあふれている。ジュスティーヌが本当に愛していたのは別の男なのだ」と、男色の友人バルタザールがばっさり切り捨てるのだ。ダーシーを中心とした三角関係の物語は、語り手の交代によってがらりとその姿を変える。ジュスティーヌとその夫ネシム、哲学者のパースウォーデンが物語の中心となり、ダーシーはあて馬役にまで後退する。
もはや三角関係どころではない。恋情は枝葉を広げに広げ、誰が誰を愛しているのかが分からなくなっていく。そうした複雑怪奇な恋愛模様の裏に、「パースウォーデンの自殺」「政治的暗躍」がちらり、ちらりと陽炎のように姿を現しては消える。
「マウントオリーブ」では、外交官マウントオリーブを主人公として、アレクサンドリアの政治的背景、これまで空気だったジュスティーヌの夫ネッシムの企みが分かる。そして「クレア」。ここでようやく、別の目をとおして三たび語られた空間からようやっと離脱し、「その後」の物語が明かされる。
ぼくらは選びとった虚構の上に築かれた生を生きる。ぼくらの現実感覚は自分たちが占める空間と時間の位置に左右される――ふつう考えるように、ぼくらの個性に左右されるのではない。だから、あらゆる現実解釈はそれぞれの独自の位置にもとづいてなされるのだ。二歩東か西によれば画面のすべてが一変する。
本書の中で中立的な立場をとり、自殺したパースウォーデンの言葉だ。私は彼の行動がとても気になった(正直、ダーシーにはうんざりだった。女々しい男の独白は読むことはつらい)。パースウォーデンの一挙一動は動機が分かりにくい。だからこそ、最終巻「クレア」で彼が自殺した理由を知ったときにはうなった。
パースウォーデンが言うように、私たちは「自分が知っていること」「自分がいる場所から見えること」を中心に世界を構築する。人は自分が見ようとするものを知覚する。裏を返せば、知らないことはうまく認知できない(認知学で言えばアフォーダンス理論、文学で言えば『ソラリスの陽のもとに』あたりがこのテーマを扱っている)。
知覚が個人の「ものさし」と立ち位置によって決まるなら、誰も「本当のこと」は知りえない。だが、いろいろな視点を重ね合わせることで、それらしきものは見えるかもしれない。だからこそ、この物語は四重に語られるのだろう。思い込みと盲目の上に成り立つ「恋」をこの仕組みに乗せたところに、ロレンス・ダレルの奇妙なユーモア精神を感じる。
結局のところ、わたしたちはお互いにまったく無理だった。お互いに自分で選りわけた虚構を差し出していたんだもの。きっとみんな同じように、途方もない無知のままでお互いを見ているのね。
アレクサンドリアでは、誰も彼もが恋をしては別れゆく。だが、心は悲しいほどに相手には届かない。登場人物がほぼ全員片思い状態で、人々は幻想的な都市を彷徨する。
「異国情緒メロドラマ・政治ミステリ風味」と言ってしまえば身も蓋もない主題を重層構造で語りきった本書を、21世紀は覚えておくべきだ。過剰な独白や突然のどたばた、プルーストを思わせる色彩描写など、やや過剰に感じ途中で投げそうになったが、最後まで読んだ時の不思議な解放感が忘れられない。
愛、この言葉について、人は空が落ちるように唐突に、その意味を知る。
そう、ある日、ぼくは震える指で四つの言葉(四つの文字! 四つの顔!)を書きしるしているのに気がついた。世界がはじまって以来、あらゆる物語作者はこの言葉によって超数の注意を引こうとおのれの数ならぬ存在をかけてきたのだ。
「しかし、これはまったく正解だった――この愛という言葉は」
recommend:
クレア・キーガン『青い野を歩く』…「人生のある時点で、ふたりの人間が同じことを望むことはまずない。人として生きるなかで、ときにそれはなによりもつらい」
トルストイ『アンナ・カレーニナ』…恋の巨大なジオラマ。
入不二基義『相対主義の極北』…事実は人ごとに異なるという思考を突き詰める。
追記:
エジプトでありながらヨーロッパの風情をたたえるアレクサンドリアの風景描写がいい。ライラック色にかすむ夕暮れの空を背景に、ぽつぽつりと緑の街燈が灯り、赤と乳白の帆が港で翻っているらしい。印象派の絵画みたいな、幻想的な風景を思い起こしながら読んだ。色のイメージは、わりと本の表紙そのまま。個人的には「ジュスティーヌ」「バルタザール」の2冊がしっくりくる。
『間違いの喜劇』ウィリアム・シェイクスピア
[間違いだらけ]
William Sharekspeare The Commedy of Errors,1594?
- 作者: ウィリアム・シェイクスピア,小田島雄志
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 1983/10/01
- メディア: 新書
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アンティフォラス弟:
この広い世界に対して、おれは一滴の水だ、
大海原にもう一滴の仲間を捜し求めて
飛び込んだはいいが、人には知られず、
人のありかを知りたいと願ううちに、形を失うのだ。
シェイクスピア初期の喜劇、間違いだらけのドタバタコメディ。
同じ顔と同じ名前を持つ双子がいたらそれは混乱する。そんな双子が2組もいたら最悪だ。主人は双子で従者も双子。彼らは自身の主従を取り違え、周りの人も延々と間違い続ける。読んでいる間ずっと、「皆、もっとちゃんとしようよ!」とつっこみ続けて疲れた。
この喜劇、登場人物たちがそろいもそろって適当すぎる。
まず父親。間違いの元凶、双子2組に同じ名前をつけた張本人である。生まれた双子の兄弟2人にアンティフォラスと名前をつけ、宿屋で買い取った従者の双子2人にはドローミオと名づけた。「双子なんだから、違う名前ぐらいつければいいのに……」というつっこみは届かない。家族は事故に巻き込まれて「2人のアンティフォラスと2人のドローミオ」は
- アンティフォラス兄とドローミオ兄
- アンティフォラス弟とドローミオ弟、父親
- 母親
に分断されて、それぞれ別の土地で生き延びることになる。
十数年後、父親と弟たちは家族を探す旅に出る。しかし、父親は敵国につかまり、死刑を宣告されてしまう。なんともうっかりすぎる父親である。
子供たちも負けず劣らずすごい。弟ズは兄ズを探しに町へ出て、そこで自分のことを「夫」と呼ぶ女性や「あの借金はどうなった?」という人々に出会う。生き別れの双子の兄を探しに来ているはずだから、「もしかして、この町には兄がいるのか?」と思うのは当然のことだろう。だが、アンティフォラス弟もドローミオ弟も、「兄」の存在を露ほども考えない。
「何だか知らないけど、もらえるならもらっておこう」といって宝石をもらったり、タダ飯をごちそうになったり、女性をナンパしたりしてする(そしてその間に、父親は死刑にかけられそうになっている)。
観客側はすべてのからくりを知っているから「ほらそっちは弟だってば! なんで気がつかないかなあ」ともどかしく思うのだが、本人たちはいたって真剣だ。誰か1人ぐらい気がついてもよさそうだが、思いもよらないことに巻き込まれた人は意外に気がつかないものなのかなあとも思ったりする(いや、しかしそれでも誰か気づけ!)。
主人アンティフォラスと従者ドローミオの掛け合いが「王と道化」の関係みたいでおもしろかった。弟組の主従が、ドローミオ兄嫁(もちろん、兄の妻だとは知らない)のデブ加減について話し合っている場面は、特に笑えた。「まんまるで、体に世界中の国がある」とドローミオ弟がいえば、アンティフォラス弟は「アイルランドはどこにある?」と大真面目に問い返す。世界地図はざっとこんな感じ。
- アイルランド⇒お尻
- スコットランド⇒手のひら
- フランス⇒おでこ
- イングランド⇒顎
- ベルギー、オランダ⇒下のはしたないところ
いったいどんな女性なのだろう。そもそも女性なのかすら怪しい。こんな阿呆談義を、延々3ページ近く続けるのだ。本当に適当な人たちである。
「間違い」は、当人が気がつくまでは「間違い」ですらない。本当のことを知っている人が見たときに、それは「間違い」となる。
からりと明るいシェイクスピアだった。シェイクスピア「らしさ」は足りないが、笑えるからそれはそれでいいと思う。それにしても、舞台ではどう演じられるのだろう。同じ服、同じ顔をした役者がやるのか、それとも違うのかなあ。
recommend:
アゴタ・クリストフ『悪童日記』…見分けのつかない双子たち。
『マクベス』ウィリアム・シェイクスピア
[人殺しの覚悟]
William Sharekspeare Macbeth ,1606.
- 作者: ウィリアム・シェイクスピア,小田島雄志
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 1983/10/01
- メディア: 新書
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マクベス:
明日、また明日、また明日と、時は
小きざみな足取りで一日一日を歩み、
ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく、
昨日という日はすべておろかな人間が塵と化す
死への道を照らしてきた。消えろ、消えろ、
つかの間の燈火! 人生は歩き回る影法師、
あわれな役者だ、舞台の上でおおげさにみえをきっても
出場が終われば消えてしまう。白痴のしゃべる物語だ、
わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、
意味はなに一つありはしない。
To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.
哄笑して破滅まで突き進む男がいた。シェイクスピア4大悲劇、王殺しの物語。好きな台詞がある作品なのでよく読むが、そのたびに何ともいえない絶妙な苦々しさを味わう作品。
スコットランドの将軍マクベスは、征伐の帰りに荒野で魔女の予言を受ける。「王になるお方」と呼ばれたマクベスは魔女の予言が忘れられず、やがて王座への妄執にとらわれる。スコットランド王ダンカン(すばらしく良心的な王様)は、最も信頼のおける部下 マクベスの城で一夜を過ごすことに決めるが、すでにそこには王殺しの罠がしかけられていた。
マクベスは、ハムレットと同じように迷える主人公だ。魔女の予言が気になるが、王殺しを実行するには迷いがありすぎた。そんなマクベスを「何と情けない!」とマクベス夫人が叱咤激励する。
マクベス夫人:
あなたは偉大な地位を求める
野心はおもちだけど、それにともなうはずの
悪心はおもちにならない。手に入れたいと望みながら
手を汚すことは望まない。あやまちは犯したくないが
あやまたずかちとりたい。
マクベス夫人の行動は興味深い。彼女は夫の弱気を指摘し、「わたしを女でなくしておくれ、頭のてっぺんから爪先まで残忍な気持ちでみたしておくれ!」と絶叫して自身を鼓舞する。そして、迷うマクベスに王殺しの刃を取らせるのである。一体「何」が、それほどまでにマクベス夫人を王殺しへと急き立てたのか? ダンカンは良心的な王で、不満はなかったはずだ。そこに「復讐」の心理は働かない。「復讐」は血が流されてから起きるが、「野心」は荒野から沸き起こる。
「人殺し」の覚悟について考えた。人間は、人を殺したことがある人間と、そうでない人間に分けられる。殺人は、容易に超えられない「一線」だ。だからこそ『罪と罰』のラスコーリニコフは、人殺しによって通常の人間ではない「超人」になろうと考えた。
おそらくマクベスは、「人殺し」をする覚悟などなかった。殺人を犯した人間の気持ちは、殺人を犯す前に想像できるものではない(実際に私は想像できない)。マクベスは、ただ勢いで殺したに過ぎない。自分の手が血で汚れていることに気づいた時、彼は慟哭する。しかし、殺人を犯した後、マクベスは自身を「悪」と定め、悪として突き抜ける覚悟を決めた。
マクベス:悪の火の手をあげたからには悪の薪をくべるほかない。さあ、奥へいこう。
一方で、強気だったはずのマクベス夫人は「望みを遂げても何の意味もない」と狂気に陥った。マクベス夫婦の対比がシンメトリですばらしい。予言にだまされたことを知ったマクベスは、しかし徹底的な悪役として啖呵を切って、舞台の幕引きにまい進する。
「悪役が悪役になる瞬間」を、『マクベス』で知ったように思う。物語の途中で改心する中途半端な悪役ではなく、カミュ『カリギュラ』のように、悪として突き抜ける存在。彼らは一線を越え、人が持つ「何か」を決定的に失った。
荒野じみた不毛、魔女の高笑い、王殺しという不吉。実に読後がすっきりしない。だからこそ、考えることは尽きない。
recommend:
フォークナー『響きと怒り』…タイトルが『マクベス』からの引用。
カミュ『カリギュラ』…絶対悪であるという自覚。
柄谷行人『意味という病』…「マクベス論」収録。
『カイン』バイロン
[疑わしきは神]
George Gordon Byron CAIN,1821.
- 作者: バイロン,Byron,島田謹二
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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カイン:
私たちを造ったものさえ、不幸であるにちがいないんだ! いろんな不幸なものを造ったんだもの! 「破壊」を生んだということは確かにたのしい仕事であろうはずがない。
それだのに私の父は、神様というものは万能だと申します。そうすると、なぜ悪があるのでしょう――神様は善だというのに。
神への疑惑の物語。「旧約聖書」で描かれる、「カインによるアベル殺し」という人類初の殺人をモチーフにしている。
世の中が「進歩」しているとしたら、なぜ戦争はなくならないのか? 技術の発展とは、知識の蓄えとは何のためにあるのか?
おそらく古来から問われ続け、答えが提示され続けているにも関わらず、未だに解かれない永遠の問いだろう。宗教は、この世界の不条理をさまざまな方法で解釈してきた。キリスト教の前身であるユダヤ教の神は、「罪は人間にあり」と説いた。知恵の実を食べたがゆえに人間の命は縮まり、楽園から追放されたのだと。
しかし、カインは神に疑惑を抱く。神が善だとしたら、なぜ「罪」を造ったのか? なぜアダムとイブの近くに知恵の木を置いたのか? 「わざとではないか」「神は人を呪おうとしているのではないか」――カインの神への疑惑である。
もともと、ユダヤ教の唯一神 ヤハウェは犠牲を求める「契約の神」だ。ユダヤ教とキリスト教は複雑に絡み合っているが、神の性質は異なる。キリスト教の神は「人間への愛」のために子供キリストを使わしたが、ヤハウェはそうではない。契約を遂行すれば恵みを、契約が遂行されなければ災厄をもたらす。バイロンは、ヤハウェの無慈悲さを糾弾する。
カインが抱く「神への疑惑」は、かつて私も考えたことがあるのでなじみが深かった。とはいえ、いくつかひっかかる部分がある。
まず、自分が神を疑っていることが、神の意思なのかどうかを疑わない点。疑惑が深いわりに、そこらへんを疑わないのはどうなのか。
そして、2部でいきなり「2001年 宇宙の旅」よろしく、宇宙空間に飛び出して地球と星を眺めながら、恐竜の絶滅まで話を持ってきていること。変に現代科学と混ぜ合わせたせいか、ちぐはぐな印象を受ける。
最後に「1時間」だの何だのと、これまた現代的な尺度がさらりと劇中にもぐりこんでいること。原初の人間として「死」の存在を知らないという設定なのに、とてつもなく現代的な性格を持っているがゆえ、「彼らの口を借りて言わせた」感が否めない。殺人の場面も、嫉妬による殺人ではなく、ただの過失として描かれる。
「神への疑惑」は非常に好きなテーマなのだが、どうにも細部が気になってあまり楽しみきれなかった。宇宙と神の相性はつくづく悪いらしい。混ぜるな危険、ということだろうか。
recommend:
バイロン『マンフレッド』…「死」という名の忘却について。
ニーチェ『ツァラトゥストラ』…神は死んだ!
フラナリー・オコナー『賢い血』…陳腐な新興宗教とその結末。
『ハムレット』ウィリアム・シェイクスピア
[それが疑問だ]
William Sharekspeare Hamlet,1602?
- 作者: ウィリアム・シェイクスピア,小田島雄志
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ハムレット:
死ぬ、眠る、
それだけだ。眠ることによって終止符はうてる、
心の悩みにも、肉体につきまとう
かずかずの苦しみにも。それこそ願ってもない
終わりではないか。死ぬ、眠る、
眠る、おそらくは夢を見る。そこだ、つまずくのは。
この世のわずらいからかろうじてのがれ、
永の眠りにつき、そこでどんな夢を見る?
それがあるからためらうのだ、それを思うから
苦しい人生をいつまでも長引かすのだ。(第3幕第1場)
シェイクスピア作品の感想を書いているわりに、なぜ4大悲劇を無視しているのかと言われた。別に無視していたわけではない、書くとあまりに量が膨大になるだろうと思ったから。まあつまりは「筆不精」というやつだ、すみません。
本劇は、復讐を果たそうとして果たせなかった「迷える王子」ハムレットにまつわる悲劇である。デンマーク王クローディアスは、自分の兄であるハムレットの父を殺して王位を簒奪、ついでハムレットの母を娶った。叔父に父と母を奪われたハムレットは、叔父王に復讐を誓う……のだが、果たせない。彼は迷う、独白する、瞑想して迷走する。通常、復讐を誓う人間は強い動機によって突き動かされて、破滅への道をひた進むものだ。しかし、ハムレットは行動しない。
そう、彼はあまりに「軸」がなさすぎる。「いったい、何なんだこいつは!」読んでいてその心の多重性に思わず目をみはる。あと一歩で決壊してしまいそうなぐらい、心と行為が一致していない。ハリウッド映画なら絶対にありえない、復讐をやり遂げない主人公である。
作品の中で最も豊かなのは、ハムレットの独り言だ。特に、彼が彼自身について述べる場面は圧巻である。
ハムレット:
ところがおれは、なんてぐず愚鈍な怠け者だ、大事を忘れ、言うべきことも言わず、夢遊病者のようにふらふらとうろついているだけではないか。王権も大事ないのちも残忍非常に奪われた国王のためにさえなにもしない。おれは卑怯者か? だれだ、おれを悪党呼ばわりするのは?……
はっ! なんと言われようと甘受するほかない。このおれははとのように気弱で、屈辱を苦々しいと思う勇気さえかけているのだ。……
おお、復讐! しょせん駄馬にも劣るのか、おれは。りっぱなものだ、敬愛する父を殺され、天国も地獄も声を合わせて復讐を迫るというのに、淫売のようにただも憂さ晴らしに胸の思いを吐き散らし、性悪女のように口汚くわめきたてるのみだ。下司女と変わりはせん!(第2幕第2場)
ハムレットの独白はこんなにも豊穣なのに、行動は中途半端。以下は、復讐のチャンスが訪れた時のハムレットの迷い。
ハムレット:
いまならやれるぞ、祈りの最中だ。やるか。やればやつを天国に送り込み、復讐ははたされる。待て、それでいいか。悪党が父上を殺した、そのお返しに一人息子のこのおれが、その悪党を天国に送る。これではやとわれ仕事だ、復讐にはならぬ。(第3幕第3場)
「よし、復讐をするぞ!」とわめきながら、その実することは芝居で改心させることだったり、母を糾弾することだったりする。勘違いで人を殺し、オフィーリアを狂気に陥れて失い、剣試合などに出場したあげくに命を落とす。あそこまで追い詰められなければ、彼は復讐を果たせなかった。こんなにわけが分からないのに、ハムレットはあまりにも「人間」すぎる。そう強烈に思わせる何かがある。
小田島雄志氏が「ハムレットを演じるには、少なくとも8つの顔が必要だ」と書いていた記憶がある。さもありなん、これほどの混沌とした役を演じるには、生半可な演技力では無理なのだろうと思う。でも、だからこそ一度は本場イギリスで観劇したい。まずはこれにて閉幕。続編はいずれ。あとは沈黙。
recommend:
小田島雄志『珈琲店のシェイクスピア』…訳者のエッセイ。演劇批評が面白い。
余談
私が『ハムレット』と最初に出会ったのは小学校低学年のころ、きっかけは地元の本屋での立ち読みだった。どこかの雑誌で「英語の名言特集」をやっていて、かの有名なセリフが紹介されていたのだ。
「To be, or not to be: that is the question」。
子供心ながらになんて格好いいセリフだと思った。雑誌を買うお金なんてなかったから、その場でこのセリフを暗記して帰った。以来、『ハムレット』は敬愛するシェイクスピア作品の中でも特別な意味を持つ。
このセリフは「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」という訳が有名だ。今回私が紹介する小田島訳では「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」となっている。ちなみに坪内逍遥は「世に在る、世に在らぬ、それが疑問ぢゃ」と訳した。冒頭で引用したハムレットのセリフは「To be, or not to be」の続きだが、これは生死についてハムレットが迷いまくる屈指の名場面。墓場のシーンと並んで好きだ。