ボヘミアの海岸線

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『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア

[天秤は傾く]
William Shakespeare,The Merchant of Venice,1596?

ヴェニスの商人 (白水Uブックス (14))

ヴェニスの商人 (白水Uブックス (14))

ヴェニスの商人 (光文社古典新訳文庫)

ヴェニスの商人 (光文社古典新訳文庫)

シャイロック:
例の証文を忘れるなよ。おれの顔を見りゃあ高利貸とぬかしやがったもんだが。例の証文を忘れるなよ。無理しで金を貸しちゃあこれがキリスト教徒の行為だといばってやがったもんだが。例の証文を忘れるなよ。


 ヴェニスを舞台とした、対価についての劇。なかなか有名な作品だが、同時に好き嫌いの分かれる作品であると思う。何しろ「これは喜劇」という人もいれば、「悲劇である」という人もいるのだ(もっとも、一応“喜劇”に分類されてはいるが)。
 なぜこんなに意見が分かれるのかといえば、シャイロックというユダヤ人の高利貸しの人物をどうとらえるかで、ずいぶんと違った物語に見えるからだろう。私も、ヴェニスの商人ことアントーニオよりも、シャイロックの方が強く印象に残っている。


 この物語は、「人肉の証文」と「結婚を申し込む箱選び」という2本の軸を中心として展開する。
 ヴェニスの商人 アントーニオは、友人バッサーニオが結婚を申し込むために必要な金を用立てする際に、ユダヤ人の商人 シャイロックから借金をする。普段からアントーニオに恨みを抱いていたシャイロックは、利子をつけない代わりに、金を返せない場合の代償として「心臓付近の肉1ポンドをもらい受ける」という契約を交わす。アントーニオが借金を返せないと分かると、シャイロックは裁判で「肉1ポンド」を要求する。

シャイロック:やつめ、おれに恥をかかせた、おれのもうけを50万ダカットは邪魔した、おれが損をすりゃああざ笑った、おれが得をすりゃあばかにした、俺の民族をさげすんだ……
いったいなんのためだ、やつがそうするのは? おれがユダヤ人だからだ。ユダヤ人をなんだと思ってやがる? ユダヤ人には目がないか? 手がないか? 五臓六腑が、四肢五体が、感覚、感情、情熱がないとでも言うのか? ……
針を指しても血が出ない、くすぐっても笑わない、毒を飲ましても死なないとでも言うのか? だからおれたちが、ひどいめに会わされても復讐しちゃあいかんとでも言うのか?

 シャイロックは、恨みを蓄積させて歪んでいく人、民族の歴史そのものだ。おそらくこの劇の中で、もっとも生々しい肉声を持っている人物は、シャイロックだろう。彼の人物描写がすごすぎるせいで、「勧善懲悪」のプロットどおりには読めなくなっている。善人の言葉が妙に歯に浮くような感じがするからかもしれない。

シャイロック:人はそれぞれ、喜怒哀楽の支配者であるもって生まれた性分によって、好ききらいが左右されるものです。……私にだって別に理由はない、申しあげようにもただアントーニオに対して抱いている憎悪と嫌悪の情、それだけでみすみす損とわかる訴訟を起こしたとしか言いようがない、以上でお答えになりましたかな?


バッサーニオ:好きになれなきゃ殺す、人間ってそんなものか?
シャイロック:憎けりゃ殺したくなる、人間ってそんなものだろう?


「対価」について考える話だった。美女ポーシャとの結婚と生涯独身の誓い、命の恩人への謝礼と結婚指輪、友情と妻。物語の中で、常に天秤にはいろいろなものがかけられている。シャイロックは、3000ダカットの借金と恨みの引き換えとして、アントーニオの心臓を望んだ。
 人の命の代償として、釣り合うものは何だろうか? そんなものがあるのだろうか? たぶん、シャイロックは商人として、天秤のかけ方を間違えたのだろうなあと思う。積年の恨みと契約があるからといって、人の命を奪う正当な理由にはならない。というか、ならない方がいいと思うんだけど、シャイロック同情派はどう思っているのだろう。20世紀を経験し、ユダヤ人差別の究極の末路を知ってしまっているからこそ、いろいろともやもや考えた話。


シェイクスピア全集


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