ボヘミアの海岸線

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『じゃじゃ馬ならし』ウィリアム・シェイクスピア

ペトルーチオ
おれはきみを飼いならすために生まれた男だ、ケート、
山猫ケートを飼い猫ケートに変えてだな、ケート、
おとなしくかわいがられる女房にしてやるぞ、ケート。

——ウィリアム・シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』

交換可能の愛と属性

 『じゃじゃ馬ならし』はシェイクスピアが初期に書いた恋愛喜劇のひとつだが、他の恋愛喜劇とは一線を画す奇妙さがある。3組のカップルが誕生するものの、この劇でおこなわれるのは恋心の交感ではなく、身分や容姿、貞淑さや持参金といった財産の交換である。
 本劇で描かれる理想の妻とは、夫の意思に従順に従い、ひれふし、「私の君主」と敬う女性のこと。この理想の妻に、男たちは愛や求婚という対価を支払おうとする。そういう意味では、この劇は恋愛模様を描いた『から騒ぎ』や『お気に召すまま』よりは、等価交換を主題とした『ヴェニスの商人』に近いかもしれない。

じゃじゃ馬ならし (白水Uブックス (7))

じゃじゃ馬ならし (白水Uブックス (7))

 『じゃじゃ馬ならし』といえば「悪態つきの山猫みたいな女性を飼いならし、理想の妻、飼い猫に仕立て上げる」物語で有名だが、これが劇中劇であることはあまり知られていないに思う。床にのびている粗野な酔っぱらいスライをからかうため、領主が「この汚い酔っぱらいに、自分が高貴な生まれの殿だと思いこませる」という冗談を仕掛ける。目が覚めたスライはすっかりだまされて、殿、殿と持ち上げられるがままに「楽しく笑って終わる」喜劇「じゃじゃ馬ならし」を鑑賞することになる。
 スライと領主たちのやりとりはわずか十数ページに満たないが、この序幕は重要だ。登場人物たちが自分の属性を“偽る”ことが、この序幕では示されている。スライはちょっとほめそやされただけでみずからを領主と思いこみ、小姓が扮する美女の奥方に共寝をしようと誘う。そんなスライを周囲の人間は笑い、そのスライは喜劇を見て笑う。「笑う者を笑う」という二重構造だ。

 「じゃじゃ馬ならし」の登場人物たちも、みんなして自分の立場をあざむく。控えめでおとなしい娘ビアンカに求婚するため、紳士のヴィンセンショーとルーセンショーは身分をやつして家庭教師に扮装し、「姉が嫁ぐまでは妹は嫁にやらん」という父親の鉄壁をくぐりぬけようとする。かわりに召使いたちが主人のふりをして、姉妹の父親に「この男を家庭教師に」と推薦する。
 貴族階級が身分を偽る、あるいは召使いが旦那のふりをするという「王と乞食」パターンはシェイクスピア劇に多いが、『じゃじゃ馬ならし』ではこの志向が徹底していて、「金持ちの女性を口説く」という目的のために、身分を偽るばかりでなく、持っている財産や父親の存在までもでっちあげる。この結婚劇は、虚構の前提の上に成り立っている。


 ころころと変わるのは、属性だけではない。彼らは、自分の記憶や性格までをも変えてしまう。その最たる例が、じゃじゃ馬キャタリーナだろう。キャタリーナは男たちが「悪魔」「気ちがいじみた強情っぱり」と辟易するような女性として描かれる。たしかに口は悪いし、もてる妹をやっかむ面倒くささはあるものの、男をあしらう言葉には才気が見えるし、『から騒ぎ』のベアトリスとそれほど変わらない。

キャタリーナ そう、せいぜい安物の椅子ってところね。
ペトルーチオ うまいことを言う。それならこの膝に乗せてやろう。
キャタリーナ 乗せてものをはこぶのは馬車よ、あなたみたいな。
ペトルーチオ 乗せて子供を産むのは女だよ、きみみたいな。
キャタリーナ 残念ながら私は駄馬ではないわ、あなたみたいな。
ペトルーチオ 残念ながらおれだって乗っかる気はないな、きみのウスバカゲロウみたいなやわな腰には。

 だが、キャタリーナは「女は、財産があれば性格は問わない」男ペトルーチオに求婚され、じゃじゃ馬ならしされてしまう。ペトルーチオが編み出した方法は「毒は毒をもって制す」、「相手より狂ってしまえばいい」というもの。手なづけるというよりは洗脳に近い。

ペトルーチオ:
眠らせぬことだ。じたばた羽ばたいてどうしても
言うことをきかぬやつにはこの手を用いるという。
あれは今日何も食ってない、これからも食わせぬぞ、
ゆうべあれは眠ってない、今夜も眠らせるものか。
さっきの肉と同じく、ベッドの支度にもあれこれ
なんでもないことにも文句をつけるとしよう。
……これがなさけをもって妻を殺す道だ、こうして
あれの気ちがいじみた強情な気質をためなおすのだ。

 スライがあっさり自分の来歴を塗り替えたように、キャタリーナもかつての自分を捨てて、従順な妻へと変貌する。紙人形はあっさりと裏返る。
 財産も生まれも性格も、そんなに簡単に捨てたり変えたりできるものではないと思う。しかし、この劇ではこれらはすべて交換可能、インスタントなものとして扱われている。まるで紙人形のような、薄っぺらさだ。研究家チャールトンが「この作品では愛がまるで動物園かローマの市場のような雰囲気の中で描かれる」と書いたのはわかる気がする。
 テンポよく話が進むので、観劇すればそれなりにおもしろいのかもしれないが、私としてはスライの「こいつはてえした傑作だ、なあ、女房の奥。早く終わってくれねえかな」というせりふにこっそり同調したいところである。

William Shakespeare The Taming of the Shrew,1592-1594?

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