キリキリソテーにうってつけの日

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『HHhH プラハ、1942年』ローラン・ビネ

 いったい何を根拠に、ある人物が、ある物語の主役であると判断するのだろうか? その人物に費やされたページ数によって? ——ローラン・ビネ『HHhH プラハ、1942年』

自分語りとアンチ歴史スパイ小説

 「事実かどうかを1次情報まで戻って確認せよ、重要なことから書け、つねに自分とすべてを疑え、客観性を忘れるな」。書く者としての心構えを、ボスや教授からくりかえしくりかえし聞かされてきた。

 だが、客観的に書くとはなんだろうか? それは人類に可能なのか?

 フランスの若く野心的な小説家は、この問いについての物語で答えようとした。ラインハルト・ハイドリヒ——第三帝国でもっとも危険な男、プラハの死刑執行人、虐殺者、金髪の野獣、山羊、ユダヤ人ジーズ、鉄の心臓を持つ男、地獄の業火が想像した最悪のもの、女の子宮から生まれたもっとも残虐な男、<HHhH>——Himmlers Hirn heibt Heydrich(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)という通り名を持つ男。

HHhH (プラハ、1942年)

HHhH (プラハ、1942年)


f:id:owl_man:20141118193411j:plain:right:w200 21世紀にいきるフランス人の若手小説家が、70年前のプラハのことを書こうとしている。題材はラインハルト・ハイドリヒ、ただひとり戦時中に暗殺されたナチス将校だ*1。背が高く金髪で、いかにもナチスが好むゲルマンの男を殺したのは、チェコ人部隊の2人の青年ガブチークとヤナーチェクであった。彼らは生きて帰ることはできないことを覚悟して、パラシュートでプラハの町に降り立って統治者ハイドリヒを襲撃し、まったく予想もしていなかった結末を迎えた。

 死を覚悟した2人の青年が、不可能とも思われる暗殺を遂行する……これは資料にもとづいた歴史的事実である。まったくもって歴史スパイ小説の題材にうってつけだ。だが、語り手である小説家は「文学的潔癖性」ともいうべき几帳面さを炸裂させて、スパイ小説を書くことを拒む。

 歴史的真実を理解しようとして、ある人物を創作することは、証拠を改ざんするようなものだ。

 この場面も、その前の場面も、いかにもそれらしいが、まったくのフィクションだ。ずっと前に死んでしまって、もう自己弁護もできない人を操り人形のように動かすことほど破廉恥なことがあるだろうか。

「小説作品の持つ子供っぽい滑稽な性質」——多くの小説は実際にはなかったかもしれないことや空想をさも事実のように書くということを、小説家はくりかえし批判する。

 主人公の小説家は「史実」と「記録」に偏執的な執着をみせて、小説を書き進めながら同じテクスト内に不満や葛藤をぶちまける。だからわたしたち読者は、1940年代プラハと21世紀プラハを振り子のように往復することになる。これ自体はメタフィクションによくあることだだが、本書を独特なものにしているのは、小説家がときに「重要な場面であっても書くことを拒否する」ことだ。

 たとえばハイドリヒの襲撃と死亡、生き延びたチェコ人部隊の包囲戦など、ほかの小説においてはもっとも見せ場になるシーンを、主人公は書こうとしない。あるいは書いても、しぶしぶ書いて、くどいぐらいに「これは想像だ」と念をおしてくる。

 できれば僕も地下の納骨堂に入って、パラシュート舞台員とともに日々を過ごし、彼らの会話の内容や、じめじめとして寒い地下での暮らしがどんなものかをここに書き記してみたい。……でも、それは無理な話だ。そういうことについてはほとんど何も資料がないから。ハイドリヒが死んだということを知らされたとき、どんな反応を示したかについても僕は知らない。それがわかれば、僕のこの本のなかでもとりわけ強烈な印象を与える場面になったはずなのに。

 ハイドリヒ襲撃は、政治的な暗殺という重要機密だから、当然ながら記録はほとんど残っていない。彼は、登場人物たちの会話をかっこつきでいかにもリアルに描き出しながら「スパイ小説の一場面みたいな描写をここで追加して、なんになるだろうと思う」とすぐに本心を吐露してしまう。

 目の前で、神経質な男が七転八倒して作品をうみだす瞬間を見ているかのようだ。生みの瞬間を見てしまった気恥ずかしさを覚える。物書きはていどの差はあれ露悪的なものだが、『HHhH』はこの露悪趣味が群を抜いている。

 ようやくわかりかけてきた。僕は今、基礎小説を書いているのだ。


 おそらく主人公、そしてローラン・ビネは誠実であろうとしている。後世の人間が、死んでしまった人を勝手にこねくりまわすことをためらっている。だから「事実」と「記録」に固執する。

 だが、彼らはあまりにも無邪気すぎる。

 あの大戦をまのあたりにしたドイツ人はどうなったか? 健忘症に陥った。あまりの暴力を前にして精神が狂いそうになり、狂うのをやめるために記憶を停止した。ダニロ・キシュ『砂時計』ノサック『滅亡』カート・ヴォネガット『スローターハウス5』など、実際に戦場と屠殺場を見てしまった作家たちはみな記録など信じていない。いかに改ざんされ、歪曲化され、縮小されたものであるかを知っているからだ。だから彼らは、書かなければ失われてしまう「記録」、しかしあまりにもつらすぎてはっきりと思い出せない「記憶」を吐き出すようにつむいだ。

 自分が伝えたいイメージの修正にあとから汲々とするということ、ここに、この世代全体のドイツ人作家がみずから見たものを書き留められず、私たちの記憶に残せなかったことの大きな原因のひとつがあると私は考えている。——W.G.ゼーバルト『空襲と文学』

 当時起こったことを現実のものとして理解し記憶に組み入れることは、通常の理性には絶対不可能となるであろうから、その体験が悪夢のようになってだんだんにぼやけてしまうのではないかとおそれる。ーーノサック『滅亡』

 それにくらべて、21世紀のフランス人青年のなんとのんきなことだろう。彼は「記録」をあまりに無邪気に信じすぎている。

 わたしは「記録」をつくり加工する立場の人間であるが、「人間は事実など記録することはできない」「事実と事実の断片を組み合わせる時点で、それは人工物になる」という事実をまえに、圧倒的な無力感に打ちのめされてきた。

 われわれがつくる記録が、いかにまがいものの人工物であることか。あいまいなところは「書かない」という選択をするし、影響力が大きい情報は隠される。人間だから、作為なく勘違いをし、チェックをすり抜けて世に出てしまうことだってある。主観を排除した「記録」は存在不可能だ——それらしく作ろうと努力することはできるにしても。

 本当は彼が何を言いたかったのか、できればそれを知りたいものだ。

 

 やはりヨーロッパは、ナチスのことになると思考に分厚いベールをかける気がしてならない。みずからの地で起きてしまった圧倒的な理性の崩壊と自信の喪失に、彼らは目をみひらいて驚き、痙攣している。彼らはいまだに面と向かえず——もはや永遠に向かい合えないのではないか。

 「ナチス=人外の巨悪」「われわれとは違う」として、ナチススケープゴートにして石棺のなかに封じこめて葬れば、ヨーロッパはあの巨悪と無関係でいられる。こうした風潮にたいして「あの巨悪を成し遂げたのはいまもヨーロッパに住むありふれた普通の人々だった」と喝破したのがアンナ・ハーレント『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』であり、「自分たちと同類である」と指摘されたヨーロッパはヒステリックな拒否反応を示したのだった。

 わたしはこの小説をアウシュビッツに行く前と行った後に読んだ。だからなおのこと、痛みを知らない世代らしい無邪気さが気になってしょうがない。
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 本書は『慈しみ深き女神たち』やギュンター・グラスなどのナチスもの小説、ハインリヒを扱った映画などは網羅しているが、「記録」と「記憶」をめぐるヨーロッパの葛藤と嘘、分厚いベールについて考えをめぐらせているようには思えない。

 「小説」が示す嘘と欺瞞を指摘するのなら、その先の「歴史」と「事実」を構成する「情報」にもその疑惑は向けられるべきではないだろうか。「歴史という嘘」について「小説という嘘」で挑んでいるのに、彼の歴史にたいする叙述はあまりにも軽い。

 <歴史>とは「われわれ」という主語を使う巫女なのだという啓示に、僕は愕然とした。

 なぜなら<歴史>は、この必然というやつは、けっして立ち止まることがないから。

——ローラン・ビネ『HHhH』

 たいして、ベンヤミンが書いた「歴史の天使」の一文のなんと重いことか。

 歴史の天使は、目を大きく見ひらいて、ただ破局のみを見る。そのカタストローフはやすみなく廃墟の上に廃墟を積み重ねて、それを彼の鼻っ先へつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使と、かれが背を向けている未来の方へ、不可抗力的に運んでいく。その一方では、かれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものはこの強風なのだ。

——ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション〈1〉 近代の意味』

 死者にたいして誠実であろうとしていることはわかるが、これは自慰行為にしかすぎないのではないか?  ナチスや歴史のことを描きながら、やはり自分の心理葛藤へと持っていってしまうあたりが、どことなくフランス文学らしい。結局のところ、著者は歴史に誠実であろうと苦悶する自分がかっこいいと思っており、その自意識がにじみ出たナルシスティックな自分語りにすぎないのではないか。

 リョサりょさ先生は本書を「傑作小説というよりは、偉大な書物と呼びたい」と絶賛しているが、なぜこういう結論になるかがわからないので、もっとちゃんと語ってほしい。わたしなら本書を「叙述スタイルのスタイリッシュさにこだわった、自分語り付きアンチ歴史スパイ小説」と呼ぶ。


 

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同じくナチス高官を書いた物語。ほぼ同じ年のときに執筆されたので、ビネは彼を明確にライバル視していただろう。ちなみに本書では、『慈しみの女神たち』は「ナチにおけるウェルベック」と言われている(ここは笑うポイント)。


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おまけ

HHhH

HHhH

英語版の表紙がかっこいい。ハイドリヒには顔がない。

f:id:owl_man:20141118224015j:plain:w200:leftラインハルト・ハイドリヒの切手。彼が暗殺された1年後につくられた。ナチス時代中に唯一、暗殺された高官だったため、ナチス軍人の切手としては彼のものが最初で最後となった*2






Laurent Binet "HHhH", 2010.