『滅亡』ノサック
わたしたちは「目覚めるのだ。これはただの悪夢ではないか」とだれかが呼びかけてくれるのを期待していたのだ。しかしわたしたちはその願いを口に出すことはできなかった。悪霊がわたしたちの口を窒息しそうになるほど塞いでいたからだ。——ノサック『滅亡』
わたしはおそれる
W.G.ゼーバルトは、ハンブルグ大空襲をあつかったエッセイ『空襲と文学』の中で、戦後ドイツの文学者がいかに「進歩」という名のもとに自国の記憶から目をそむけ、記録を残さなかったかを指摘し、ドイツ国民がかかった病を「集団的記憶喪失」と呼んだ。
ドイツの作家陣を舌鋒鋭く批判するゼーバルトが認めた、数少ない作品のうちの一作、それがノサック「滅亡」である。

- 作者: ノサック,Hans Erich Nossack,神品芳夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1987/02/16
- メディア: 文庫
- クリック: 2回
- この商品を含むブログ (6件) を見る
ノサックはハンブルグ生まれの作家で、1943年のハンブルグ大空襲を偶然、生きのびた。本書は、空襲から数か月たったのちに書きとめられた。彼はこうはじめる。「わたしにとってはわが市は全体として滅亡した」。
わたしはその顛末を報告する責任があると感じている。なぜこのように思い上がって責任などというのか、それはたずねないでほしい。まずもってこの報告を済ませておかないとわたしの口は永遠に閉ざされたままになると感じられる。
当時起こったことを現実のものとして理解し記憶に組み入れることは、通常の理性には絶対不可能となるであろうから、その体験が悪夢のようになってだんだんにぼやけてしまうのではないかとおそれる。
記憶することは理性には不可能だと認めながらも、ノサックは記憶が風化されることへの「おそれ」から筆をとった。その筆致はするどいのだが、ところどころ記憶の断片が欠落しているかのようにもうろうとしていて、かえって作家が「深淵」と呼んだ、衝撃のすさまじさを物語っているように思える。
最も危険なのは「だったのに」ということばであった。「だったのに」と言わないためには、苦しいほどの注意深さを必要とした。
ハンブルグの大空襲は数日間かけて町を完全に焼き払った。町は燃えるものがなくなるまで数日間にわたって燃え続け、防空壕にいた人々はもれなく焼け死んだ(空襲直後の様子については、『死神とのインタヴュー』所収の「ドロテーア」があつかっている)。指のような太さをしたうじ虫の群れが地面をおおいつくして足がすべるため、死体処理のために地下室へ行く人々は火炎放射器でうじ虫を焼き払って進まなければならなかったという。
だが、そんな凄惨な状態であっても、ハンブルグの住民たちは町へ戻ろうとした。ノサックは、死にまみれたハンブルグ市街にようやくたどりついたとき、圧倒的な幸福感を感じたという。「やっと本当の生が始まるぞ」——これがいったいどのようにしてわきあがってきた感情なのか、わたしには思いもつかない。戦争がいかにして人の根っこを奪い、人の心を破壊するか、その片鱗をかいま見ることができるだけだ。
人々はバルコニーにすわってコーヒーを飲んでいた。それはまるで映画のようであり、元来あり得ないことであった。さかさまになった目で別世界の行為をながめているのだと気づくまでに、どのような思考の回り道が必要であったか、もうおぼえていない。それに気づくと、今度はわが身の状態に愕然とした。
ノサックは、自分だけではなく周りの状況についても記録している。ハンブルグからの避難民と、空襲をまぬがれた受け入れ側の人々のあいだにうまれた深い溝、避難民への妬み、どうせなら泣きわめいてくれた方がよかったという受け入れ側の感情、知り合いより他人だと言い切る避難民、およそ日常からは想像しきれないいびつな世界が、淡々と描写されていく。
無への跳躍を敢行せねばならなかった避難民は、土地の住民からみれば、すべての人の目前に迫っていたことをすでに経験し終えてしまっているわけで、それがねたみの原因だったのではないだろうか。
過去を失うということは、目覚めて振り返ったときに一面が火の海だったときの衝撃に似ているという。自分と世界をつなぐものがなにもない。なぜ自分は生きのびているのかを疑問に思うほど、中心を失った人々は、ただ亡霊のように死んだ町をさまようことしかできなかったという。
壮絶だった。とてつもなく深い谷底についてその深さを言葉では表現できないように、ノサックの言葉からも「言葉にしきれないなにか」がにじんでいる。それは推し量ることすらできない。遠い。すべてが悲しいほどに遠かった。
しかしながら、それはつらいことではない。ただ理解しがたいだけだ。とても理解できなくて、その重さを量ることなどできないのだ。

収録作品
- 人間界についてのある生物の報告
- ドロテーア
- カサンドラ
- アパッショナータ
- 死神とのインタヴュー
- 童話の本
- 海から来た若者
- 実費請求
- クロンツ
- 滅亡
- オルフェウスと……
Hans Erich Nossack"Interview mit dem Tode",1948.
recommend
- W.G.ゼーバルト『空襲と文学』…集団的記憶喪失について。
- ツヴァイク『チェスの話』…チェスが異常に強い男の、壮絶な秘密。