『雨に呼ぶ声』余華|家にも故郷にも帰る場所がない
孤独で寄る辺のない呼び声ほど、人を戦慄させるものはない。しかも、それは雨の日の果てしない闇夜に響き渡ったのだ。
ーー余華『雨に呼ぶ声』
『雨に呼ぶ声』を読み終わった後に残った言葉は「寄る辺なさ」である。
自分が所属する共同体に居場所がない時、共同体の誰とも打ち解けられない時、数少ない心寄せる人を失った時、人はどこにも行く場所がない、帰る場所がないと感じる。
本書は、そういう寄る辺なさをそのまま書物にしたような小説だ。
舞台は1960年代から70年代の中国。語り手の孫光林は、農村・南門で、貧しい家の次男にうまれた。
物語は、12歳の少年が、数年ぶりに帰郷する場面から始まる。彼は6歳の頃、親からそうとは知らされずに里子に出され、6年ぶりに帰ってきた。少年は、偶然に道端で祖父に遭遇するものの、互いに気づかずに同じ道を歩いていく。
このシーンから、もうすでに寂しい。そして故郷と家になじめなかった青少年期の記憶が、時系列が入り乱れながら、霧雨を思わせる静かな口調で語られる。
語りは静かで穏やかだが、語られる物語は、激情と暴力と疎外と死にあふれている。
少年が家になじめない、いちばんの理由は父親だ。父親は、少年を忌み嫌い、祖父とともに「家の荷物」として暴言を吐いて虐げる。
父親だけではなく、周囲の男たちもそれぞれに苛烈だ。ヤブ医者を開業して人を殺した祖父、見栄っ張りで死んだ息子を英雄にしたがる父、喧嘩で派手に相手をぶちのめす兄、すさまじい理由で死んだ養父など、暴力と死が吹き荒れている。
父と兄はつかの間の人生最高のときを迎えた。彼らは政府の役人が訪ねてくることを勝手に夢見ていた。幻想は県の役人から北京の用心にまで発展した。最も輝かしい時期は、その年の国慶節だった。英雄の親族として、天安門の楼上に招待されるかもしれない。
家に居場所がないことは、逃げ場がない子供にとっては地獄にひとしい。多感な年頃だから、家族にたいして、期待や失望、怒りを抱いてもまったく不思議ではない。しかし、本書の語りに、荒々しい感情はぜんぜん見当たらない。
かわりに著者が拾い上げるのは、友人を得た喜びと失う悲しみ、手淫にたいする罪悪感と恐怖といった、やわらかく湿った感情だ。暴力的な一族の男たちのエピソードに比べたら、じつに非暴力的でナイーブな記憶である。
だからこそ、一族の男たちと語り手の差がきわだって浮かび上がる。語り手はほんとうに周囲とは合わない「異質の子」だったのだと感じる。
暴力と死に満ちた荒々しさと、静かな語りが同居する、不思議で寂しい小説だった。
一族のエピソードは凄まじいが、その語りも別の意味ですごい。ひどい仕打ちを受けたこと、相容れないことを、呪いもせず、嘆きもせず、そういうものとして語りつつも、孤独の寂しさがただよっている。
まるで 風雨にさらされた石像みたいな語りだと思った。静かに傷つき続ける心を持つ人は、こういう世界を生きているのだろうか。
最後まで読み終わった後に冒頭を読み返したら、初読時には知らなかった景色と記憶がよみがえってきて、私まで、なにかを失った気持ちになった。「寂しい」という言葉を使わずに、どこまでも寂しい心を描いた小説だった。
孤独で寄る辺のない呼び声ほど、人を戦慄させるものはない。しかも、それは雨の日の果てしない闇夜に響き渡ったのだ。
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