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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『火葬人』ラジスラフ・フクス

 「あいつはどうかしている。いつもこうなんだ。大虐殺の現場に連れていかれるとでも思っているんだ……」 ——ラジスラフ・フクス『火葬人』

ホロコーストという“慈善”

 心電図が停止しながらも生きている人間は、じつはけっこういるのかもしれない。心臓は動いているし、呼吸も排泄もするし、仕事や社交だってお手のものだが、心がまったいら。好き嫌いといった心のでこぼこを持ち合わせていないから、どんな枠組みにでもスライムのようにするりとはまってみせる。だからおうおうにして彼らは、きわめて常識があって模範的な人間であることが多い。

 普通であることを誇りにし、それを他者にも求める人間には気をつけるがいい。実在可能な哲学的ゾンビは模範的で、社会が求める“普通”で“善良”な人間の顔をしている。

 「この世界には、平和、正義、そして幸せがないとね」

火葬人 (東欧の想像力)

火葬人 (東欧の想像力)

 ときは第二次世界大戦前夜のプラハ、火葬人コップフルキングル氏は、善良でまじめな市民として充実した日々をすごしている。妻を「天なるお前」と呼び、家族にはこまめにプレゼントをし、自分の仕事に誇りを持ち、戦争に向かう情勢を憂いている。

 家庭的な男、まじめな仕事人、ていねいな物腰、平和を愛する善良な市民——だがなにかがおかしい。家には火葬場の時刻表を貼り出して「高貴な時刻表」とあがめ、娘の誕生日パーティーで火葬とその効率性について演説をする。その同じ口で、妻と娘への愛をうたい、戦争などごめんだと語る。不貞などするわけないと誓いながら、感染症を気にして月にいちど医者のもとへ駆けこむ。抑揚のないしゃべりかた、欠落した心理描写、愛と並列に語られる死。すべてが物腰やわらかく不吉である。

 わたしが興奮するものは、奇妙なことだが、時間の影響を受けることがないのだと。

 コップフルキングル氏が火葬を愛するのは、それが清潔で効率的で人道的だからだ。最低限の時間で、人間を苦悩から解き放ち、塵にかえすことを、コップフルキングル氏は愛した。これらの言葉はいやがおうにも、ユダヤ人問題の最終解決、民族浄化絶滅収容所を連想させる。

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「よりオートマチックで、メカニックであるがゆえに、人間が塵へ戻るプロセスが早められ、それによって神を手助けすることになるのです。そしてとりわけ、人間自身を手助けすることになります。死は、苦痛や困難から人間を解き放つのですから……」 

 コップフルキングル氏は、平和を愛し、家族を愛する自我を完璧に保ちながら、水を飲むようにナチズムへと染まっていく。彼は、物語の最初と最後で、なにひとつ彼の言葉は変わっていない。しかし、やっていることはおぞましいほどに異なっている。

 
 ナチス党員に脅されたのなら、弱みをにぎられたのなら、洗脳されたのなら、拷問されたのなら、まだよかった。だが、コップフルキングル氏は彼自身をなにも変えずに、みずからの意思で、愛と平和を尊びながら虐殺に加担した。コップフルキングル氏にとって、ホロコーストは不幸な人々に安らぎを与える慈善事業、社会の秩序を維持する社会貢献であった。

「すべてが倒錯なんだ、それだけさ。弱い、劣った人たち、カール……」

 コップフルキングル氏ほど極端ではないにせよ、第二次世界大戦のとき、ナチズムに加担した多くの一般市民は、似たような心境があったのではないだろうか。彼らは自分たちの平凡な日常が続くことを願い、常識と平和を信じ、それらが実現することを望んだ。そのささやかな願いをかなえるためには、自分たちの心を痛めないちょっとした犠牲が必要だった。ナチスは脅しと武力でもって人々を制圧したのではなく、人々が良心を痛めずに、自己肯定しながら他者を迫害できる枠組みを提示したのだと、本書は暴いている。

 

 世界を清潔にしたいあまりに漂白剤を飲みほし、心電図が停止しているがゆえに生きることができてしまった人は、ほかの人間にも漂白剤を飲ませようとする。コップフルキングル氏は友達にもお知り合いにもなりたくないが、彼に似た人はきっと、思っている以上にそばにいるのだろう。漂白剤のソーダ割りカクテルみたいなグロテスクな後味の悪さに挑戦したい人は、解毒剤(クノーやウッドハウスなどがいいだろう)をお忘れなく。


Ladislav Fuks "Spalovač mrtvol", 1967.

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Spalovač mrtvol celý film
映画版『火葬人』。コップフルキングル氏のしゃべり方が、想像していたとおりだった。のっぺりした、平坦なしゃべり方。表紙のシーンは1時間31分ごろにある。せわしなく、挙動不審で、不吉な予感を感じさせる。

石井千湖さんによる、訳者の阿部賢一さんインタビュー。『火葬人』の翻訳秘話、この小説を「社畜小説」と呼ぶ人がいるという話がおもしろかった。


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