ボヘミアの海岸線

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『タイガーズ・ワイフ』テア・オブレヒト

 祖父はようやく口を開いた。「分かるだろう、こういう瞬間があるんだ」
 「どんな瞬間?」
 「誰にも話さずに胸にしまっておく瞬間だよ」
 ——テア・オブレヒト『タイガーズ・ワイフ』

トラの嫁と、不死身の男

 まずはわたしの話からはじめよう。曾祖父が曾祖母と一緒に住みはじめたとき、曾祖母にはすでに子供——わたしの祖父がいた。地元の名士であり信頼の厚い弁護士であった曾祖父が、生涯いちども掃除をせず風呂に数年に1回しか入らず、子供を餓死させかけた野生の曾祖母を養っていたのか、子供の父親が誰なのか、誰も知らなかった。さまざまな憶測が飛びかった。子供の父親は敵国の兵士だったとか、子供の父親と弁護士先生が親友だから引き取ったとか、政治取引の犠牲になったのだとか。社会的に認められた男が籍もいれず、人間よりは獣に近い女とその連れ子を育てることは尋常ではない。祖父はなにかを、あるいはすべてを知っていたようだった。しかし彼はあっぱれに逃げきり、すべてを墓の下に持っていった。生きているわれわれには、物語と伝説だけが残った。

 良いものも悪いものも、人生で極端なことに困惑すると、人々はまず迷信にその意味を求め、ばらばらの出来事をつなぎ合わせることで何が起きているのか理解しようとする、ということも学んだ。どれほど秘密が重大で、きっぱりした沈黙が不可欠でも、打ち明けたい気持ちを持った人は必ずいるのだし、解き放たれた秘密はとんでもない力になるのだと学んだ。

タイガーズ・ワイフ (新潮クレスト・ブックス)

タイガーズ・ワイフ (新潮クレスト・ブックス)

 どうやら人間は空白と尋常ならざる事象をそのままにしておけない生き物らしく、わからないこと、語られないこと、自分たちのやりかたとは異なるものや考え、由来がわからないものについて、事実と事実の空白を、想像と噂で満たそうとする。不可解な自然現象の空白を理解するために人類が編み上げた物語が神であり、神話だった。そしていまは、噂とデマがインターネットで渦を巻いている。

 内戦により「あっち側」と「こっち側」に分裂してしまったバルカンの小さな国には、「トラの嫁」と「不死身の男」の物語があった。

 わたしの祖父を理解するために必要なことすべては、二つの物語につながっていく——トラの嫁の物語、そして不死身の男の物語。この二つは、秘密の川のように、祖父の人生のそのほかすべての物語りのなかを流れている。……一つは、祖父がどうやって大人になったかという話で、わたしは祖父の死後にそれを知った。もう一つは、直接聞かされた話で、どうやって祖父がまた子どものなったのかという話だった。


 語り手ナタリアは、若き女性医師である。旧ユーゴスラビアを思わせる彼女の祖国は内戦によって分裂し、かつて彼女が愛した別荘、祖母の故郷は「あっち側」の国になってしまった。電波が届かない辺境の村で慈善活動をしていた彼女は、祖父が行方不明になったのちに誰も知らない辺鄙な村で死んだと聞かされる。

 著名な医師であった祖父は、父を持たないナタリアにとって重大な存在であった。祖父とともに育ち、祖父のように医師を志した。その祖父が死んだ。なぜ辺境の村に? なにをしに? なぜ家族になにも言わずに? 孫に会いにいくと嘘をついてまで、誰に会いに? なぜ自分に会いに来なかった? 死期を悟ったときに最後にしようとしたことは? 残されたナタリアは空白を埋めるために、自分の記憶と祖父から聞いた話、そして祖父の故郷に住む人々の証言という異質の糸をより合わせて、祖父の物語を紡ぎ出す。


 「トラの嫁」は、トラと心をかよわせ、DV夫をトラに食わせてトラの子供を妊娠したといわれる聾唖の少女であり、幼い祖父にとってだいじな存在だった。「不死身の男」は祖父の腐れ縁で、40年ずっと年を取らず、殺しても死なず、人々の死期をぴたりと言い当てる能力を持っている。祖父と不死身の男は、不死身の男がほんとうに不死身なのかどうかで賭けをする。

 どちらも非現実的な存在ではあるが、トラの嫁が巫女のような超然性をたたえているのにたいして、不死身の男は妙に陽気で人間くさく、親しみが持てる。「叔父が死神でね」としれっといいながら、頭蓋骨にめりこんだ銃弾を垢のようにぽりぽりと掻き出して捨てる男も男だが、その様子にきれて、不死身の男をコンクリの簀巻きにして川にまる一夜、沈める祖父も祖父である。彼らのやりとりは悪がき同士のようで、とても楽しい。

 著者は、超常的なふたりの物語を軸にして、バルカン半島の内戦とその結果をも描こうとする。この物語には、あちこちに黒灰色のにおいがつきまとっている。灰色は、爆撃による灰燼であり、いつあけるかもわからない重苦しい吹雪であり、命をつなぐ暖炉の灰であり、土の中でしらじらと照らされる頭蓋骨であった。旧ユーゴスラビアではかつてカトリック、イスラム教徒、正教徒たちが隣りあって暮らしていた。しかし、それらは民族主義のもとに、ぜんぶまったいらに整理されてしまった。

 大通りで子どもたちが時速二百キロで飛ばしていて、お子さんがあまり誉められない格好でサンルーフにつかまっていたわよ、と近所の人たちから親が聞いても、戦争中なのよ、みんな死ぬかもしれないでしょ、という言葉には太刀打ちできなかった。親たちは責任を感じていたし、気遣いのなかったわたしたちはその罪の意識につけ込んでいた。

 「連絡を取りたかったとしても、それは無理な相談だろうな。あそこは更地にされてしまったからな」

 戦争はすべてを変えてしまった。いったんばらばらになってしまうと、かつてのわたしたちの国を形づくっていたピースは、パズルのなかでそれぞれ持っていた特徴を失ってしまった。名所や作家、科学者、歴史など、かつては共有されていたものは、新しい所有者に分配されてしまった。

 作者のオブレヒト自身は7歳のころに亡命したため、ナタリアのように長いあいだ内戦を経験していない。だからかもしれないが、グスラゴブレット・ドラムなどのバルカン伝統の楽器や、イスラム教徒がすぐ近くに住む文化、オスマン帝国時代から受け継いだ歴史など、わかりやすいバルカンのモチーフを用いているわりには、作家と土地の距離はどこか遠いような気がしてならない。彼女の描くセルビアはセピア色をしている。

 だが、不死身の男と祖父が最後のディナーをするシーンだけは、すばらしい色に満ちていた。ニンニク添えのセルビア風サラダ、サルマ(葉で包んだひき肉の煮物)、フダンソウを添えたジャガイモの煮物、パセリのソース、ニシマトウダイのグリル、トゥルンバ(ドーナツのシロップ漬け)、バクラヴァ(パイ菓子)、トゥファヒャ(クルミを詰めたリンゴのコンポート)、カダイフ(細い免状の生地をつかった菓子)。どれもこれもおいしそうで、このシーンだけがほかとは比べものにならないほど、ことさら悲劇的に美しく輝いている。祖父の言葉もまた、胸を打つ。

 「人生でずっと愛した町だからだ。最良の思い出はここにある——妻と娘だ。それが、そのすべてが、明日には地獄になってしまう」


 本書は、過酷な現実を生きるために信じられないような物語を必要とした人と、それを信じることに決めた人の物語だ。語られることと語られないことの取捨選択がどのように行われるかを描くことによって、伝説の生まれ方を描いた小説だとも言えるだろう。

 空白は悲しみであり、物語はそれを埋める慰めとなる。祖父が残した空白を、ナタリアはふたつの物語を使って埋めていった。実際にそれが本当であったかどうかは関係なく、ただそれを必要としていた。一方で、彼女はもうひとつの真実も知る。本当に大事な物語は、人は誰にも語らず大事にしまっておく。

 「知っていたとしても、知っているとは言わないだろうから、知っていると思っているだけの人を見分けるのは難しいな。誰かはもう知っているはずだ。わしだとは知らないのかもしれない――でも知っている。……女房には言わないでくれるか、先生? それはやめておいてくれるかな?」

 バルカンにセルビアというなじみのない土地、語りの魔術という好きな要素がありながら、どうもいまいち乗り切れなかったのは、創作科出身らしい文化の料理のしかた、観光パンフレットらしさ、情熱よりも技術の方に目が向いてしまうからかもしれない。物語の力を信じる小説としては、ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』ダニロ・キシュ『砂時計』レオ・ペルッツ『夜毎に石の橋の下で』などの方が好きだった。彼らはもっと切実で、腹の底から絶叫しているからだ。わたしの手の中にあるこの本では、トラは吠えなかった。


Tea Obreht "The Tiger's Wife", 2010.


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