ボヘミアの海岸線

海外文学を読んで感想を書く

『オラクル・ナイト』ポール・オースター

[啓示は手の中に]
Paul Auster The Oracle Night,2003.

オラクル・ナイト

オラクル・ナイト

 とにかくあのノートを買って以来、何もかもが無茶苦茶なんです。僕がノートを使っているのか、ノートが僕を使っているのか、それすら分かりません。

 未来はすでに私のなかにあった。いまにも訪れんとしている惨事に向けて、私は態勢を整えていたのだ。


 「色で読む海外文学」リストをまとめている時、この本を読んでいた。すると、狙ったかのように、色にまつわる会話が本書の中に出てきた。これぞオースター的偶然。思わずにやりとした。
 世の中は、日々をまったく平穏に過ごす人と、冗談のような偶然にみまわれる人に分けられる(冗談の起きる確率は極めて不均等だ。起きる人には起き、起きない人にはまったく起きない、おもしろいことに)。オースターは明らかに後者であり、その根底に世界という名の物語の「うねり」を読むタイプなのだと思う。


 主人公のシドは小説家だ。彼は重病から生還した後、ポルトガル製の青いノートに小説を書き始める。その小説の主人公は編集者で、名高い女性小説家が書いたとされる未発表原稿の編集を頼まれる。この物語の名前が『オラクル・ナイト』、本書のタイトルとなっている。
 この物語には、主人公のシド、友人のジョン・トラウズ、シドが作りだした編集者と作家など、多くの文筆家が登場する。彼らがそれぞれに編み上げた物語の断片は一見何の関係もないように思えるが、幾層にも降り積もるうちにやがてシド自身の物語につながっていく。まさに『啓示の夜』。ある意味で、本書はタイトルがすべてを語っていると言ってもいいかもしれない。
 ねじれた入れ子構造の中に、歴史保存局や稲妻男、幻影装置や中国人街のリラクゼーションハウスなど、オースター節全開のエピソードが便乗している。シドが小説を書いている最中は部屋から消えていたように見えた、というエピソードは特に素敵だった。


 『オラクル・ナイト』は、誰もの頭を一度はかすめるであろう問いを示している。我々の世界は、すでに誰かが書き記したことの“なぞり”ではないのか? 物語はすでに啓示されていて、我々がそれに気がつかないだけではないのか?
 すでに啓示は与えられている、と言うと、神話や聖書のように唯一神が君臨する秩序だった世界を想像するが(物語内物語『オラクル・ナイト』の主人公は、悲しき予言者である)、オースターが描く世界のルールは「秩序」に従わない。むしろ世界は「偶然」に支配されている。登場人物たちは、突然重病になったりガーゴイルの彫像が危うく脳天を直撃しかけたりした時、世界を動かす無骨で容赦ない仕組みを身をもって知ることになる。

 唯一絶対の真理や神を信じない相対主義者はやがて「偶然と確率」という名の神にたどりつく。この神は、目的を持たずにサイコロ遊びをする。オースターが描くのは気まぐれな神のサイの目が引き起こす偶然なのであって、だから本書の中には「すべてはすでに示されている」という神秘主義的な運命観があるにもかかわらず、すべてをコントロールする「神」のような存在がいない。あえていうなら、運命を紡ぐのは「言葉」そのものか。「言葉は現実だ」と、“偉大な小説家”ジョン・トラウズは述べている。


 「事実は小説より奇なり」派か「事実は事実、小説は小説」派かによって、感想はずいぶん変わる気がする。私自身は、過去に書きつけたメモが数年後の自分のことを書いていたことに気がついて脱力した経験があるから、けっこう「分かる分かる」といった感じなのだけれど、他の人はどう読むのだろう?


ポール・オースターの著作レビュー:
「ムーンパレス」
「最後のものたちの国で」
「トゥルー・ストーリーズ」


recommend:
エドモン・ジャベス『問いの書』……言葉が持つ力と無力さ。ちなみに、著者はオースターと同じユダヤ人。
クリスタ・ヴォルフ『カッサンドラ』……信じられなかった予言者。