ボヘミアの海岸線

海外文学を読んで感想を書く

挫折した海外文学選手権

これまでたくさんの小説に挫折してきた。いったいどれほどの本を手に取り、本棚に戻したことだろう。

これは、私と、私と本棚を共有してきた妹による、とりわけ思い出深い「挫折した海外文学」の記録である。

この記事は、主催している「海外文学・ガイブン アドベントカレンダー」12月1日分として書いた。12月1日から25日まで、ガイブンにまつわることを、いろいろな人が書いてくれる予定。

海外文学・ガイブン Advent Calendar 2020 - Adventar

 

 

 マルセル・プルースト『失われた時を求めて』

 理由:新刊を待っている間、すべてを忘れては読み返すループにはまって挫折

プルーストは、挫折ガイブンの王道だと思う。多くの人がプルーストに挑み、挫折してきた。私もその例にもれないが、私の場合は、光文社版(高遠訳)を手にしてしまったがゆえの挫折である。

私がプルーストを読み始めたのは、光文社版の2巻が出たころだった。高遠訳は流麗で、本そのものに挫折要素はなかった。しかし、刊行スピードっ……! 刊行スピードが……遅い……っ……! すぐに読んだ内容を忘れる私にとって致命的……っ! 新刊が出るたびに1巻から読みなおしていたら、巻が進むたびにだんだん腰が重くなって挫折した。人生無限ループに巻きこまれた主人公がループをいやがる理由が、プルースト・ループでちょっとわかった気がする。

いや、わかる。私はちゃんとわかっている。高遠先生は原文にたいする思いがすばらしく(訳者あとがきの長さと熱量から感じる)、一文一文に魂をこめて翻訳しているのだ。だから私は高遠訳で最後まで読みたいと思って、ずっと待っている。

とはいえ、数年をまたいでのプルループはちょっとしんどいので、全巻がそろってから読もうと待っていたら、岩波版が登場して、光文社版をさっくりと抜き去って完結してしまった。岩波版で通読して、光文社版が完結してからまた読む計画を立てたものの、実現にはいたらず、だらだら挫折中。

 

ウィリアム・ギャディス『JR』

JR

JR

 

 理由:圧殺系狂気ポモ(ポストモダン)に飲まれて一時挫折

全940ページ、重量1.2㎏と驚異の質量を誇る『JR』は、そのたたずまいからして、挫折オーラがにじみ出ている。なのに、こんなやばい本で読書会をしようとする友人がいたので、本当にやばいなと思いつつ、命を削る覚悟で買った。

実際にやばかった。『JR』のやばさは、厚さでも重さでもなく、9割以上が「会話の発話者がわからない声」だけで書かれていることだ。こんな感じの描写が、900ページ以上続く。

−−……ええ、ほら、顔をあげて、ちゃんと空を見て! あの空で大金を稼いでいる人がいると思う? ……どんなものでも、必ずそれでお金儲けしているおお金持ちがいるのかしら?

−−ああ、うん、いや、ていうか……

−−それにほら、あそこを見て。月が昇ってくるわ、 見えない? あれを見ていると……

−−え、あそこ? ……いや、でも、あれは、ジューバート先生、あの光ってるのはただの、ちょっと待って……

 客観的な描写がないから、誰が話しているか、なにを見ているかがわからない。わからないものや人に「任意のX」を代入して、正体があかされるまで情報を留保しながら読み続けると、めちゃくちゃに脳のメモリを食う。メモをとっても、細切れに出される情報を書くスペースがない。

記憶と紙が混沌としてきたので、半分のあたりで挫折した。半分まで読んで、もうこれ以上このやり方では読めない、と退却したのははじめてのことだった。

読書会がなければ、ずっと挫折したままだっただろう。しかし、読書会は開催されてしまう。なので、挫折した体に鞭を打ち、Webサービス「Scrapbox」を使ってWikiをつくりながら再挑戦して、どうにか読了した。息も絶え絶えに読み終わった頃にはすっかりポモ(ポストモダン)に精神を圧殺されて狂いきっていたので、読書会まで数日あまったからと、Wikiをたどりながらもういちど読んだ。

結果として『JR』を2.5周したことになる。読書会に参加した別の友人から「なにがふくろうに、ここまでさせるのかわからない」と言われて、まったくそのとおりだな、真実を語っているなこいつは、と思った。挫折指数が振り切れて最狂の小説でも、読書会があれば読んでしまう境地があることを教えてくれた、思い出深い一冊。

 

ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』

理由:うんこ! おしっこ! 世界とアンニュイ気分がマッチせず挫折

ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』は、「16世紀×フランス古典×全5巻」という重めのたたずまいから、「読みたいけど読んでない小説」の上位にランクする作品である。実際の中身は、糞尿まみれ、ダジャレまみれ、ホラまみれのユーモア文学で、大笑いしながら読める小説なのだが、私は2巻で挫折した。

当時の私は人生の転換期にいて、これからの道をどう選択しようかと悩み思索にふけっていた。気分転換しようと、積んでいたガルパンを読んでみたものの、うんこ! おしっこ! おしっこの川にアヒルが浮かんでる! おしっこ大洪水! わーい! みたいな幼稚園児的下ネタの明るさと、自分のアンニュイムードが不協和音を起こした。

胃がやられている時に、チョコレート尽くしのアフタヌーンティーを食べるようなもので、タイミングと食い合わせが悪かった。ガルパンは最高なので、今ならげらげら大笑いしながら読めると思う。

 

 ナサニエル・ホーソーン『緋文字』

完訳 緋文字 (岩波文庫)

完訳 緋文字 (岩波文庫)

 

 理由:幼女パールちゃんが小妖精すぎて挫折

17世紀アメリカのプロテスタント社会が不倫をさらしあげる「ピューリタンこわい」小説。

ピューリタン社会の恐ろしさと陰湿さにげんなりしているところまではどうにかついていったものの、不倫相手とのあいだに生まれた愛の結晶幼女パールちゃんが、「あたし、パール!」と小妖精きわまる登場をしてきたあたりから、雲ゆきが怪しくなった。

パールちゃんは小妖精のような愛くるしさと、人あらざるものが憑いた幼女めいた残酷さを持ち合わせていて、圧倒的にキャラが強烈だった。「私のパール」「パールちゃん」などと大人たちが呼ぶたびに、「出たよパーリィちゃん!」「どうしたっていうの、パーリィ」と私も謎愛称で呼びまくるようになり、小妖精パールちゃんに思考を持っていかれすぎて、話に集中できなくなって挫折した。いま思い返しても、なぜあんなにパールちゃんに気をとられたのかはわからない。水夫がセイレーンに惑わされるようなものかもしれない。1年後ぐらいに読んだら、パールちゃん耐性ができていてぶじ読了。

 

ウィリアム・ フォークナー『響きと怒り』

響きと怒り (上) (岩波文庫)

響きと怒り (上) (岩波文庫)

 

 理由:『自負と偏見』とまちがえて挫折

『響きと怒り』は妹の挫折本である。妹は冒頭数ページで挫折した。

妹が挫折したのは、初見殺しとして名高い冒頭シーンだ。『響きと怒り』は、名門一族コンプソン一家に生まれた知的障害者ベンジャミンの独白から始まる。ベンジャミンは言葉を話せず、よだれをたらして泣きわめきながら、現実と過去の記憶をだだ漏れさせる。たとえばこんな感じだ。

「クエンティンがボクの腕をつかんで、ボクたちは納屋に行った。すると納屋がいなくなって、ボクたちは納屋が戻ってくるまで待った。戻ってくるのは見えなかった。納屋はボクたちのうしろに来て、クエンティンは牛たちがごはんを食べる桶の中にボクを入れた。桶もいなくなろうとしたので、ボクはぎゅっとつかんだ。」

これは納屋が移動しているのではなく、クエンティンとベンジャミンが移動しているのだが、自分を動かさずに納屋を動かしているため、理解に時間がかかる。こうした独白がまる1章続く。

作者による挫折峠が初手から躊躇なくぶっ放される、挫折ガイブンの王道と言えるだろう。

だがいちばんの挫折理由は、そもそも読む本をまちがえていたことにある。

妹は映画版『自負と偏見』を観る予習のつもりで『響きと怒り』を選んだらしく、読み始めて「なんか違うな、ぜんぜんかわいいツンデレが出てこないな」と思ったらしい。そりゃそうだろう。こんな鬼畜オープニングがイギリス屈指のラブコメディでたまるか。

「と」しか合致していないところ、フォークナーを引き当てるところに、妹の適当さと引きの強さを感じる。いや、フォークナーだったからこそ、冒頭数ページで気づけたのかもしれない。妹は、フォークナーの方角に向かって五体投地して感謝を捧げるべきだと思う。

 

 

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

 

 理由:ゾシマ長老が腐ったので挫折

いちど読み始めたらとまらない「徹夜小説」と名高い本書で、妹は挫折した。棚に『カラ兄』をすすっと戻した妹に理由をたずねたところ、「ゾシマ長老が腐ったから……」との答え。そこ? そこで挫折?

私がいぶかしがったのは、妹は名高い難所「イワンの大審問官」はクリアしていたからだ。イワンが長舌をふるいまくるこのシーンは屈指の名シーンであると同時に、屈指の挫折ポイントでもある。妹はこの難所をクリアしたのに、その後の「ゾシマ長老」シーンで挫折した。なんでも、腐る、腐らない、の話をしているところで、もうだめだと思ったらしい。なんでそこなんだ。今でも挫折ポイントはわからない。5年ぐらい経ってから『カラ兄』に再挑戦したところ、ゾシマ・ポイントをクリアして読了したらしいので、ハッピー・エンド。

 

 

 まとめ:人によって感想と挫折は違う。挫折もまた読書である

これまで読書の感想ブログを12年ほど書き続けたものの、読み終わった小説の感想しかブログには書いてこなかったから、挫折した小説や、再挑戦した経験は、ブログに残していない。

でもそれは、けっこうもったいないことだと思う。挫折は、感想と同じぐらい、多様で思い出深い。難解だったり、気分が合わなかったり、変なところに気をとられてそれどころじゃなかったり、謎の挫折ポイントでくじけたり、後から読み返したらぜんぜん大丈夫だったりする。私の中でこれだけ多様な挫折があるし、人によっても挫折ポイントや挫折の理由は違う。

 

挫折は感想と同じぐらい、個人的で多様な読書体験だと思う。むしろこう言ってもいい。海外文学を読む歴史は、海外文学に挫折してきた歴史であり、挫折なくして、海外文学の読書はありえない。

私たちはなんどでも挫折し、なんどでも読み始め、また挫折しては、読みとおし、読み返し、読み返したあとにまた挫折する。森羅万象がめぐり、死と再生がめぐるように、読書と挫折と再読はずっとめぐり続ける。

 

挫折は悪いものととらえられがちだが、本を買って、本棚から出しただけで、それだけで個人的な読書体験だ。私たちはもっと読書にたいして自由で開かれていていいと思う。

感想を語りあう文化がこれほど発展しているのだから、同じぐらい多様で思い出深い挫折だって、もっとわいわいと語れればきっと楽しい。

もし思い出深い挫折、挫折ポイントがあったら「♯挫折した海外文学選手権」でTwitterに書いてもらえるとうれしいです。

 

 

みんなの #挫折した海外文学選手権

togetter.com

 

海外文学以外の「みんなの挫折本」が集まったまとめ。