ボヘミアの海岸線

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『昼の家、夜の家』オルガ・トカルチュク|われら人類は胞子のように流れる

ガイドブックには、食べられるものと、そうでないものとの違いが、事細かに書いてある。よいキノコと、悪いキノコ。キノコを、美しいか、醜いか、いいにおいがするか、くさいのか、手ざわりがいいか、悪いか、罪に導くキノコか、罪を赦すキノコか、そうやって分類する本は一冊もない。人はみな、自分が見たいものしか見ない。

――オルガ・トカルチュク『昼の家、夜の家』

 

秋になると、いつも『昼の家、夜の家』を思い出す。この小説は、キノコの小説であり、秋の小説だ。ポーランドでは、毎年秋になると皆がキノコ料理を食べて、キノコ狩りをするという。落ち葉を思わせる表紙の絵は「秋」という名前で(完璧な表紙だ)、小説の構成もどこかキノコに似ている。

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

 

 

『昼の家、夜の家』は、ポーランド=チェコ国境付近にある小さな辺境の村、「断片の町」ノヴァ・ルダにまつわる100以上ものエピソードが降り積もった小説である。

断片形式の小説はしばしば、エピソードの断片がひとつの大きな物語を構築する「部品」として扱われるが、本書は断片そのものが主役で、それぞれが互いにつながっていたり、ぜんぜん関係なかったりと、もっと自由で適当な感じだ。

 語り手「わたし」と隣人マルタの生活を中心として、村の飲んだくれ、ひげがはえる聖女伝説、女になりたい修道士、インターネットで集めた夢、夢で見た恋人に会いに行く女、宇宙電波から頭を守るために木の帽子をかぶる男、毒キノコを使ったレシピなど、時代も場所も語り手も違うエピソードの断片たちが、胞子みたいにしんしんと降り積もり、たまにキノコになったり、ならなかったりする。

 

なんといっても強烈なのが、語り手「わたし」の隣人マルタである。

マルタは、人間というよりは、人間の形をした胞子に近い。マルタが語る言葉は、他のどの登場人物とも違っている。彼女は欲や過去や多忙といった「自分を自分に縛るもの」から解き放たれて、世界の秘密につながっている感じがする。

人が「いっさい」とか「いつも」とか「けっして」とか「あらゆる」とか言っても、それを言っている本人にしか通じない、だって現実の世界にはそんな一般的なことなんか存在しないんだから。…もしもだれかが「いつも」という言葉でものを言いはじめたら、それはつまり、その人が世界とのつながりを失って、自分のことについて話しているしるしだ、と。

「もっとも美しいものは、カタツムリにかじられたもの。もっとも美しいものは、完璧からもっとも遠いもの」

死ぬのがそんなに悪いことなら、人はとっくに死ぬのをやめてるはずよ。

くりかえし現れる「世界の大きな流れに沿う」「完璧でない世界を愛する」感覚は、キリスト教からは遠く離れて、むしろアニミズムや多神教の考え方に近いと思う。「全能なる神が完全な世界と摂理をつくった」と信じるキリスト教圏において、「『あらゆる』と言う人は自分のことを語っている」「世の中には一般的なことなんて存在しない」と語るマルタは、時代が時代なら「魔女」と呼ばれていたかもしれない(森に住む老女なんて、まさに魔女にうってつけではないか)。

他にも「異端信仰」らしいものが描かれる。一見すると敬虔なカトリックに見える「聖女伝説」や修道士には異端が見え隠れしているし、ギリシャ哲学者やニーチェの名前、カオスの話も登場する。


キリスト教が語る、神を頂点とした完璧で理路整然とした世界は胞子に浸食されて、揺らめき流転していく不完全な世界、倒木のうえで胞子をふりまきながら生まれては死んでいくキノコ的世界に塗り替えられていく。

 記憶は絵葉書を刷りつづけるが、それでは世界を理解できない。だから風景は、それを見る人の心の状態に大きく左右されるのだ。人は風景のなかに、自分自身のなかの、刹那に移りゆく一瞬を見ている。どこを見ようと、人はいつも自分自身を見ている。それだけ。

ガイドブックには、食べられるものと、そうでないものとの違いが、事細かに書いてある。よいキノコと、悪いキノコ。キノコを、美しいか、醜いか、いいにおいがするか、くさいのか、手ざわりがいいか、悪いか、罪に導くキノコか、罪を赦すキノコか、そうやって分類する本は一冊もない。人はみな、自分が見たいものしか見ない。

 

私が思うよりずっと、人間とキノコと夢の違いは少ないのかもしれない。

大きく流れる世界から見れば、人間も胞子も夢も、ぽこぽことうまれては流れて消えていく泡にすぎない。

ノヴァ・ルダに生きる人たちは、私が生きている世界よりもずっと死に近い場所で生きている。

いいキノコと悪いキノコを賢く見分けて食べるのではなく、きれいだと思った毒キノコを食べて中毒症状になることを選ぶような、死とともにごろ寝する「危ういゆるさ」が、濃霧のように土地を包んでいる。

だから「ベニテングタケのタルト」レシピなんて物騒な代物が、悪意もなく狙いもなく、さらりと軽やかに描かれるのだろう。

そして私は本書を読んで、だいじなことを知った。マッシュルームは手触りのいいキノコで、人に触れられることが好きらしい。こういうことに気づける小説は、だいたいよい小説なのである。

わたし自身は流れにひとしい。わたしはノヴァ・ルダの、刻々と色を変える小川だ。わたしはそういう、場所と時間が備えている特徴の合計であって、それ以上のなにものでもない。

…これらすべてから唯一得られるのは、ちがう視点から世界を見れば、世界はそれぞれちがって見えるということ。つまりわたしは、見ることのできる世界の数だけ、ちがう世界に住めるのだ。

 

Memo:花粉症についての驚くべき考え方

 本書でもうひとつ衝撃だったのが「花粉症」についての考え方だ。花粉症のもととなる雑草を刈り取る村人たちは、刈り取る時に炎症反応が出る。その時に「炎症反応が出るのはいいことだ、草に私たちを気づいてもらえたのだから」と誰かが言う。

 僕たちの身体を、生贄として牧草地に捧げたのだと。このおかげで僕たちは草に存在を知られたわけだからね。もしも草が僕たちになんの危害も及ぼせなかったら、草は僕たちを理解できない、というか、こっちに気づきもしなかっただろう。そうなったら、生者のなかを、気づかれないでうろうろしている死者の魂とおんなじで、僕たちはよそ者ってことになる。つまりは、いかなる方法であれ傷つけられないってことは、傷つけようとする側の存在を否定してるってことなのさ。 

 なるほど、私も杉やブタクサに気づいてもらっているから、花粉症が出るのだ、これはいいことなのだ…………。

Memo:ノーベル文学賞

オルガ・トカルチュクは2018年、ノーベル文学賞を受賞した。

Prize motivation: "for a narrative imagination that with encyclopedic passion represents the crossing of boundaries as a form of life."

 

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ポルトガル文学。ポルトガル人ですら知らない小さい村ガルヴェイアスと宇宙をつなぐ。あるローカルな土地に根ざしたいくつもの物語をつなぎあわせる手法が似ていると思った。

 

読みたい。きのこ文学が勢ぞろいしているらしい。 

 

翻訳:小椋彩