ボヘミアの海岸線

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『死都ブリュージュ』ジョルジュ・ローデンバック|町と自分と彼女の区別がつかない

 彼女は彼にとって、生きうつしの、明確な姿をした思い出だった。 ——ジョルジュ・ローデンバック『死都ブリュージュ』

町と自分と彼女の区別がつかない

 ベルギーの画家フェルナン・クノップフによる『見捨てられた町』*1を見たとき、なんて幻想文学の表紙にうってつけの絵だろうと思った。水際は建物にまで侵食し、すでにこの町は空っぽである。時計の針はとまっている。鳥のはばたきひとつ、風のうなりさえ聞こえない。

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 この見捨てられた町にはモデルがある。ベルギーでかつて栄えた海運都市、ブリュージュ。13世紀ごろには海運のためにヴェネツィアなみの財力と人口を誇ったが、15世紀ごろに廃れて衰退した。さて現在、世界にはふたつのブリュージュがある。ひとつは、衰退から復活し、明るい観光都市となったブリュージュ。もうひとつは、衰退の幻影を引き延ばし続けた架空のブリュージュ。画家が描いたのは後者、ローデンバックが構築した小説世界が編んだ幻影の町だった。画家は現地にはいっさい足を向けず、幼少の記憶と『死都ブリュージュ』から想起するイメージだけをたよりに、存在するが存在しない、幻影の町を描いた。

死都ブリュージュ (岩波文庫)

死都ブリュージュ (岩波文庫)

 
 『死都ブリュージュ』は見捨てられた町そのもの、灰色の濃霧のような小説だ。主人公は最愛の妻に先立たれた男ユーグ、踊り子ジューヌ、そしてブリュージュである。ユーグは最愛の妻が死んだことを認められず、ブリュージュに移り住む。ひとりぼっちになりたくないからこの灰色の町に移ってきたのだと、ユーグは述懐する。彼の孤独をなぐさめるのはブリュージュに住む人々ではなく、町そのものだ。灰色の霧、教会の鐘、窓ガラスの反射、尖塔は、ひそひそと彼のことを話し合っている。ユーグは死んだ妻の髪の毛を聖遺物として崇めてキスし、町を亡霊のように彷徨する。

 ブリュージュは町というには呼吸をしすぎているし、ユーグは人間というには死にすぎている。男には、自分と死んだ女と町の区別がついておらず、すべてを灰色の霧の中で混ぜ合わせて一体化させようとする。ブリュージュはユーグであり、ブリュージュは亡き妻であった。

  かつては人に愛され美しかったこの町も、いまはこのように彼の哀惜を具現していた。亡き妻はブリュージュだった。

 そしてついに男は、死んだ妻のを灰色の路地のうちに見つける。実際のところは妻ではなく、うりふたつの生身の女、踊り子のジューヌであったのだが、町と自分の区別がつかない男は、当然のことながら、生きている女と死んだ女の区別もつかない。

 そう! あの女だ! 彼女は踊り子だったのだ! しかし、一瞬彼は踊り子などと思いさえもしなかった。それはまさしく墓石からおりてきた新だ女だった、いまかなたで微笑み、こちらに歩み寄り、腕をさしのべている彼の亡き妻だった。

 男は、生きている女と死んだ女を重ね合わせようとする。女は女で、彼は自分のことを愛しているのだという幻想を抱く。町が吐き出す灰色の幻想の中で、彼らが互いに伸ばした腕は触れあわず、むなしく空を切る。

 ユーグの気持ち悪さと身勝手さはふるっている。ふたりの女の影を限りなく一致させるために、10年も前の古ぼけたドレスをジャーヌに着せようと試みる。「類似」を「同一」にしようとしたがゆえにわずかな「差異」が見えてしまい、すっかり幻滅してその原因をすべてジャーヌに押しつける。身勝手なことこのうえない。

 ——彼はとつじょ、絶大な苦悩にとらえられた。それはたんにジャーヌとの別離や、その瞬間に彼の心をかぎりなく痛めつけた荷姿の写る鏡が破壊したことでもない。もはや町と自分のあいだには誰もいなくなり——町と向かい合ってーーふたたび一人ぽっちになるのではないかと思うと、とりわけ恐怖を感じたのだった。

 町と男の共依存を描く描写はすばらしく倒錯して狂っており、この物語をこの物語たらしめている心臓だ。話の筋はじつに陳腐だし、終わりも想像できるものだが、主人公と町の境界をどこまでもあいまいにして、半死の人間と町をこね合わせてひとつの巨大な生き物として描ききったことは、偉大なる言葉の魔術というほかない。舞台そのものが物語となり、主人公となりうることを、じつに自己中心的で気味の悪い男をつかって、本書は示してみせた。

 『死都ブリュージュ』は絵画だけではなくオペラにもなり、一世を風靡した。見捨てられた町に見捨てられた人々の物語という、憂鬱きわまる物語をヨーロッパの人々は愛した。第一次世界大戦のころのことだった。

Georges Rodenbach "Bruges-la-Morte", 1892.

 

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