ボヘミアの海岸線

海外文学を読んで感想を書く

海外文学アワード2011

 しれっと新年を迎えようかとも思ったけれど、なんだかんだで今年もやることにした「海外文学アワード」。2011年刊行のものではなく、2011年に私が読んだ本の中から特に気に入ったものを選ぶという趣旨。「アワード2011」という感じではぜんぜんないが、そこはお酒でも飲んで忘れてください。

J.M.シング『アラン島』

アラン島 (大人の本棚)

アラン島 (大人の本棚)

 ときどき、会話や島の古い歌のきれはしが風に吹きあげられて、ここまで聞こえてくることもある。

 アイルランドの西に浮かぶ群島を訪れた作家の日記。この島では、人々はゲール語で昔の物語を歌い、魔法が日常に当たり前のように存在する。ゲールの伝説を語るおじいさん、女たちの赤いスカート、古い城壁跡、古びたモノクロ写真のような、荒涼とした美しさが印象的。ウイスキーのグラスを傾けながらうらうらと読んだ。

ウィリアム・フォークナー『響きと怒り』

響きと怒り (講談社文芸文庫)

響きと怒り (講談社文芸文庫)

 もしこんなふうに永久に次々ただ入れ替わっていけるのなら 一瞬燃えあがる炎のように混じりあって それからきれいに吹き消されて冷たい永遠の闇にはいることができればよかった

 アメリカ南部にある架空の町ヨクナパトーファを舞台にした小説群「ヨクナパトーファ・サーガ」のひとつ。一族の血にしこまれた情念から逃れようとする者、逃れた者、逃れられない者たち、哀れな白痴、賢すぎて気が狂った青年、情念に燃える女たちの抱える感情の濁流である。臓腑を絞り出すような独白が激烈だった。2009年ベストに挙げた『アブサロム・アブサロム』とともにフォークナーベストのひとつ。

ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』

灯台へ (岩波文庫)

灯台へ (岩波文庫)

 わしがともした小さな灯りは、弱々しくとも、一、二年は光を放つかもしれぬ。だがやがてもっと大きな灯りにかき消され、時を経てさらに大きな明るみの中に飲みこまれるに違いない。

 人の命が、偶然の采配によってこの世に灯されたつかのまの灯火なら、灯台は生まれては消えていく灯火を淡々と照らす観測者だ。死と記憶の風化について描いた傑作。第1章「窓」はごく一般的な家庭のただの1日なのだが、その対比としての第2章「時はゆく」がすばらしい。多くの人が、自分の存在が過去形になることを忘れすぎているよね。

レイナルド・アレナス『夜になるまえに』

夜になるまえに

夜になるまえに

 そのころぼくはいろんな国を巡り歩いた。ベネズエラ、スウェーデン、デンマーク、スペイン、フランス、ポルトガル。どの国でもぼくは叫び声が出るにまかせた。それはぼくの宝だった。それしか持っていなかった。

 キューバの作家、アレナスの絶叫する自伝。絶叫するのはアレナス自身であり、たまに読み手の私も絶叫する。独裁政権下にあって、ゲイと作家は、弾圧される存在以外の何者でもなかった。アレナスは少なくとも10回は死んでいなければならないはずだが、彼は冗談のように生き延びる。こんなにも衝撃的で、かつ生に貪欲な自伝は後にも先にも本書しか知らない。叫び続けて爆発する、赤色巨星のような人生がもたらす衝撃。

ハーマン・メルヴィル『代書人バートルビー』

メルヴィル ― 代書人バートルビー (バベルの図書館 9)

メルヴィル ― 代書人バートルビー (バベルの図書館 9)

 「せずにすめばありがたいのですが」

 確かに、仕事もめんどうくさい事柄も何もかも、せずにすめばありがたい。だが、これを本当に「何もかもに」適用したらどうなるか。無用者としての存在を徹底させた代書人バートルビ―。彼の心はまるで底なしのうろのようで、のぞきこんでも何も見えない。だから恐ろしく、忘れられない。バートルビーの周りの人たちもじつはけっこうおかしいキャラが多い。きわめてシュールだが、どこかにコミカルさがあるのが良い。


ナサニエル・ホーソーン『ウェイクフィールド』

ウェイクフィールド / ウェイクフィールドの妻

ウェイクフィールド / ウェイクフィールドの妻

 人間の感情に裂け目を作るのは危険なことだ。裂け目が広く長く、ぱっくり口を開いてしまうからではなく、その口があっというまに元どおり閉じてしまうからだ。

 その行動は違えど、ウェイクフィールドはバートルビーと同じ種類の人間だ。「ある日突然失踪したように見せかけ、家の隣に20年間隠れ住む」という気狂いとしか思えない行動をやった理由も背景も、この物語からは何もわからない。自分のいない世界をのぞくということは、生きながらにして死者の目線を手に入れるということ。自分が忘れられ、自分のいた場所に別の人が入ってくるという、この耐えがたい現実をのぞいた男はなにを考えたのだろう。わからない、わからない……。

エリアス・カネッティ『眩暈』

眩暈(めまい)

眩暈(めまい)

 これほどの大金と、これほどの少量の理性とくれば、襲われて奪われるのが関の山。

 おそらく本書を読んだ人間はその後、テレーゼという名前を見るたびに震えが走る体質になるだろう。気違い小説はこの世にあまたあれど、これほどまでにエンジン全開の気狂いがのべつまくなしに脳内を垂れ流しにし続けるものはそうあるまい。おそらくこれまで読んだ本の中でも、だんとつにきつい読書体験だった。登場人物たちの徹底した非人間ぶり、自己中心ぶりがもたらす気持ち悪さは「眩暈」などという表現ではとうてい表しきれない。

W.G.ゼーバルト『アウステルリッツ』

アウステルリッツ

アウステルリッツ

 写真のプロセスで私を魅了してやまないのは、感光した紙に、あたかも無から湧き上がってくるかのように現実の形が姿を現す一瞬でした。それはちょうど記憶のようなもので、記憶もまた、夜の闇からぽっかりと心に浮かび上がってくるのです。

 私たちが知る「過去」や「歴史」は、ほんのひとにぎりの記録で組み上げられたいびつな欠陥品だ。多くの人々が抱える感情や記憶は、忘れさられ、読みかえられ、はじめから“なかったこと”になる。『アウステルリッツ』は、この無情な事実にたいする控えめな抗議だ。意味深に配置された写真と、うなるようなささやき声がこだまする。地味だが、余韻は深い。モノクロ写真が好きな人にはおすすめ。



 振り返ってみると、『アラン島』『灯台へ』など、比較的静かな作品を好んだ年だったように思う。あるいは『夜になる前に』『響きと怒り』のような激情を描いた作品、そして『眩暈』『バートルビー』『ウェイクフィールド』などの理解不能な狂人物語。
 今年、印象深かった出来事はやはりリャマサーレス来日で、国際ブックフェアでリャマサーレス氏と翻訳家の木村榮一氏の対談、特に私が好きな「白い炎」のエピソードを間近で聞けたことがよかった。木村センセイは中学生の頃にドストエフスキー『罪と罰』を読み、作品から白い炎が出ているように感じたという。それからも時々、ほんとうに時々ではあるが、すばらしい作品に出会うと「白い炎のようなものが見える」ようになったらしい。これまで彼が白い炎を見たのは数えるほど。だから『黄色い雨』を読んで白い炎が見えた時、先生はリャマサーレスに「あなたの作品を翻訳したい。白い炎が見えたから」と口説いたそうだ。
 おそらく私が海外文学を読みあさるのも、白い炎が見たいからなのだろうと思う。今年は50本の感想と少なめではあったけれど、いい物語と言葉に出会えたことは幸運だ。来年もすてきな炎が見られますよう。