ボヘミアの海岸線

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『黄色い街』ベーツァ・カネッティ

 まったく奇妙な界隈である、この黄色い街というところは。不具者や、夢遊病者や、狂人や、絶望した者や、人生に飽きあきした人間がひしめいている。——ベーツァ・カネッティ『黄色い街』

沈黙の激情

 ベーツァ・カネッティは、ブルガリア生まれのノーベル賞作家 エリアス・カネッティの妻である。彼女は作家の妻であり、自身が小説家でもあった。『黄色い街』は、エリアス・カネッティが書いた狂気の博覧会『眩暈』の原型*1だと言われている。『眩暈』があまりに強烈、あまりにきつい読書体験だったので、その原案があることに、そしてそれを書いたのが夫人であることに驚いた。

黄色い街

黄色い街

 黄色い街は、ウィーンのユダヤ人街「レオポルド町」*2がモデルらしい。黄色は、独特な色あいだ。文化圏によっては黄色は太陽の色、王者の色だというが、人が密集する集合体においては、黄色はにごった白眼、病んで黄ばんだ肌を想起させる。

 他の区域とは隔絶されたゲットーの路地裏で、人々はそこかしこで隣人のうわさ話をささやきあう。あの奥さんは気が狂ったらしいねえ、だんなさんはあんなにいい人なのに、いやいやあの男はあれで金の亡者ですよ、それより煙草屋の娘はどうなった、あのあばずれのことかい?……


 本書には、手足を失ったせむし女、金の亡者にとりつかれた哀れな若妻、若い少女を屋敷に売りつけては法外な金をせしめる仲介屋など、エゴイスティックに生きる人間どもがひしめいている。読み手の嫌悪感をつのらせる人物像は、なるほどたしかに『眩暈』に継承されている。しかし、ベーツァの視点は夫のそれより現実的で、迫真にせまる。エリアスの書く人々は「これは人間か?」と思わず問いたくなるほど悪魔的だが、ベーツァの登場人物は「ああ、こういう人はいそうだ」と思わせる生々しさがある。

 そして、ベーツァの視点には女性への憐れみがあるように思う。夫に財産をしぼりとられる若妻やすべてをあきらめなくてはならなかった不具者、若くて美しいという理由だけで売られ利用される少女たちの悲惨な運命を容赦なく描く筆致の裏には、告発と憐憫がちらついている。特に、うまれつき手足を失ったせむし女ルンケルが印象的だった。彼女は他人から優しくされず運に見放されたため、他人を傷つけ軽蔑することでしかおのれを守れない。

 ルンケルの顔には軽蔑がしみついていた。とおい昔、もの心ついて以来のこと、人生のすべてをあきらめなくてはならないと知って以来のこと。

 こうした人間くささは、『眩暈』ではすっかりそぎ落とされている。ここに、夫と妻の世界の見方、立ち位置のちがいがほの見える。エゴイスティックな人間を突きつめ突き抜けたエリアスと、いけにえとなった人々の悲しみと周囲の無関心さを描いたベーツァ。同じモチーフを使っていても、読後の印象はかなり異なる。

 強烈さ、忘れがたさは『眩暈』がずば抜けているが、『黄色い街』の方がより悲哀がつのる。彼女の沈黙、彼女の激情は、燃えさかる青白い炎のようだ。人間に対する視線が違うこの夫婦は、お互いをどう見ていたのだろうか。

 すでに鬼籍の人となった小説家夫妻の心のうちを知るすべはないが、想像するための情報の断片はいくつか残っている。ベーツァは、生前には自分の原稿を世に出さなかった。彼女が出そうとしなかったのか、エリアスが阻止したのかはわからない。エリアスは名声に寄ってくる女たちをはべらせ、ベーツァは夫のために献身し、彼の名声が高まる中で死んだ。一説には自殺だったという。その後に出たカネッティ作品は、すべてベーツァに捧げられている。

 まったく物ごとはそうすすむのだ。バカが決定して、イカレ者があと押しする。そして、リーナは家にいて、泣いている。

Veza Canetti Die galbe Strabe,1990.

reccomend:
エリアス・カネッティ『眩暈』…夫の作品。
グスタフ・マイリンク『ゴーレム』…東欧のユダヤ人街。チェコ。
残雪『黄泥街』…海外文学の黄色い町ってどうしてこうも怖いのか。

*1:これを盗作というか、インスパイアというかは意見がわかれるところだろう。

*2:レオポルド町にはかつてフロイト一家が住んでいたが、水晶の夜で焼き打ちにあった。