ボヘミアの海岸線

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『ハイファに戻って・太陽の男たち』ガッサン・カナファーニー

[砂と血にかき消えた祖国]
Ghassan Kanafani a'id ila Hayfa 1970.Rijal Fi-sh-shams,1963.

ハイファに戻って/太陽の男たち

ハイファに戻って/太陽の男たち

 彼は突如、世界中が覆るか、眠り込むか、死にたえるか、あるいは自分が外にある車へと飛び出して行ってっしまうまで笑いに笑い続けたいという衝動に襲われた。


 砂をかみしめるような、切れた唇から流れる血をなめるような読書経験。心臓をわしづかみにされた気がした。
 カナファーニーはパレスチナの悲劇を生きて死んだ作家である。占領前のパレスチナに生まれ、1948年のナクバ(大災厄)後に難民となった。彼はレバノンに逃れてパレスチナ解放人民戦線(PFLP)に所属、鮮烈な言葉を発して多くのパレスチナ人に影響を与えたと言われている。その影響を見とがめられてか、車にしかけられた爆弾で爆殺された。享年36歳だった。

 本書は、2つの中編「ハイファに戻って」「太陽の男たち」、5つの短編「悲しいオレンジの実る土地」「路傍の菓子パン」「盗まれたシャツ」「彼岸へ」「戦闘の時」をおさめる。どれも印象深いが、表題作の「ハイファに戻って」「太陽の男たち」の重力はすごかった。
 カナファーニーの言葉は銃口みたいだ。飾り気などまるでない。読んでいるこちらがつらくなるような率直さでもって、故郷を追われた悲しみと、武器をとらざるをえない理由を淡々と突きつけてくる。武器をとらざるをえないというこのメッセージが、私を呆然とさせる。平和裏に解決できないのか、というぬるい言葉は沈没してしまう。男たちは言う。互いに銃口を向け合って、どちらかが倒れなければ先へは進めないのだと。


「ハイファに戻って」

  「人間は究極的にはそれ自体が問題を体現している存在だ」

 あるパレスチナ人の老夫婦が、十数年ぶりに故郷ハイファに戻る。かつて自分たちが住んでいた家を見るため、そして生き別れた息子を探すため。だが、自分たちの家は、故郷は、息子は「お前など知らない」と言う。「私たちと同じではない」、このあまりにもシンプルで残酷な言葉が胸を打つ。
 祖国とは何か? 壁に飾ってある写真が、椅子が、土地が故郷なのだろうか?
 この作品は未完らしいが、これはこれで完結している気がする。老人の「もう1人の息子に家出してほしい」というつぶやきは、「戦え」と言ってしまう自分を止められない、あまりにも悲しい心の現れのように思える。


「太陽の男たち」

 国境を無断で超えるには、2つの道しかない。生きてたどりつくか、望み潰えて国境に骨を埋めるか。国境超えを生業とする仲介人はたいがい悪どく、容赦ない銃弾と太陽光が人々を襲う。よほど運がよくなくては生き延びられない。国境は、生死を分かつ生命線でもあった。
 男たちは、タンクの中で声も出さずに煮え死んだ。彼らはそれなりに幸運だった。だからこそやるせない。「なぜ声を出さなかった」という問いかけの裏には、状況に甘んじて死ぬな、拳を挙げろ、声を出せというカナファーニーの咆哮が反響している。

 「祖国というのはね、このようなすべてのことが起こってはいけないところなのだ」


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