『木曜日だった男 一つの悪夢』チェスタトン
[何かに抗いたい]
Gilbert Keith Chesterton THE MAN WHO WAS THURSDAY , 1905.
- 作者: チェスタトン,南條竹則
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2008/05/13
- メディア: 文庫
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「僕にはすべて分かったぞ」…
「地上にあるものはなぜお互い同士戦うのか?世界の中にあるちっぽけなものが、なぜ世界そのものと戦うのか?一匹の蝿が、なぜ全宇宙と戦わねばならないのか?」
19世紀に活躍したイギリスのジャーナリスト・推理作家による、哲学アナーキズム小説。
作者は、「ブラウン神父」シリーズなどの探偵ものを書いている。本書も、無政府主義者の集会に刑事の男が侵入するという、スタンダードな探偵物語のプロットだが、途中からどんどん抽象度があがっていって、キリスト教的哲学の話に放り投げられる。
追うものと追われるものが、じつはその境はあいまいだった、という、なかなか現代的な構成。無政府主義者と特殊警察の人々は、コインの表と裏のような存在である。お互い、狂信的な心を持ち、憎むものの破滅を望んでいるという点で、両者は本質的に同じ。
だから無政府主義者と警察は、物語が進むにつれて立場を入れ替え、ひっくり返される。
最後の方になるにつれ、どんどんキリスト教的な抽象思考へ飛んでいくあたりは、確かに「悪夢」っぽい。もともとチェスタトンはカトリック系の思想家で、まるで一人の心の中の信仰の葛藤が、そのまま七曜会のメンバーの個性になっている感じがする。「何を信じるべきか」という、ごくごくシンプルな信仰の問題。そして、その「何か」に反抗せざるをえない人間の、哲学アナーキズム。
圧倒的存在と、それに対する反抗心。最後の日曜日の言葉は、「で、君らは結局どうしたいの?」という神の問いかけのようにも見える。
この物語中、とにかく日曜日の存在が謎すぎる。安息日のモチーフ、平和、神、秩序。日曜日とはなんだったのか。圧倒的な「それ」を前にしてびびるのも人間、不可能と知りつつ立ち向かおうとするのも人間。なんとも煙に巻かれる物語。
recommend:
レーモン・クノー『地下鉄のザジ』 (クライマックスに向けて抽象化)
ポール・オースター『幽霊たち』 (探偵小説のような、圧倒的存在と、それに対する反抗心。