ボヘミアの海岸線

海外文学を読んで感想を書く

『インド夜想曲』アントニオ・タブッキ

[合わせ鏡の旅]
Antonio Tabucchi Notturno Indiano , 1984.

インド夜想曲

インド夜想曲

「あなたの本にはなにか納得のいかないところがあるわ」
「なんだかわからないけれど、どこか納得がいかない」
「ぼくもそう思う」

 
 イタリアの作家よる、インドをめぐる幻想の旅行記。主人公は、インドという外部の異国と、自分の内部の両方を旅する。

 私の通う大学には、月に1、2回、古本市が立つ。本書は、その市で買ったものだ。2回この本を読んだ。まずは大学図書館で、友人を待っている間に。その年の夏休みに、インドに行く予定だった。旅行資金のためにひどく貧乏で、本を買うお金がまったくなかったので、図書館のすみでせみの声を聞きながら読んだ。そして学期が明けてのはじめて古本市で、まためぐりあった。いかにもタブッキらしい登場のしかただなあと、なんだか笑ってしまったことを思い出す。

 主人公は、失踪した友人を探すために、インドの街に溶け込んで放浪する。だが気がつけば友人なんてものはいないのかもしれなくて、作者と物語の境はいつの間にかかき消えている。彼は、自分で物語を作り上げ、その物語の中を旅しているのか?寝たり起きたり、世界はぐらぐらと揺れて倒錯する。全体にどこかふわふわとした現実感のなさがあるのだが、時折すえた汗のにおいやゴキブリのざわめきなど、はっと目が覚めるように、現実が明滅するのがおもしろい。

 インドという架空の国を、架空の目的を持った、架空の男が旅をする。いわゆる読者にやさしい終わり方ではない。流れて流れて、気がつけば影は街に飲まれて消えていくのを見守るしかないような。



アントニオ・タブッキの著作レビュー:
『供述によるとペレイラは・・・』

recommend:
幻想を旅する。
>イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』・・・幻想の都市とマルコ・ポーロ。
萩原朔太郎猫町』・・・猫の町に彷徨いこんで。

『神を見た犬』ディーノ・ブッツァーティ

[不安と恐怖の種]
Dino Buzzati IL COLOMBRE E ALTRI RACCONTI , 1966.

神を見た犬 (光文社古典新訳文庫)

神を見た犬 (光文社古典新訳文庫)


 イタリアの幻想作家による短編集。

 ブッツァーティが描くのは、「種」みたいなものだ。ごくごく小さなものなのだけど、それが一度地面に落ちれば、いろいろなものを吸収して成長していく。日常の不安や恐怖も、同じようなものなのだろう。つとめて平和に見えるけれど、小さなことをきっかけとして、じわじわと広がっていく。以下、印象的だったものの一言感想。

「コロンブレ」:
 恐怖のあまりに、人生を棒にふってしまう男の話。もはやすべては遅すぎた。あーあ

「戦の歌」:
 運命は、歌の中に。ブッツァーティらしい茫漠とした雰囲気が出ている。

「七階」
 日常の「まあいいか」という惰性の怖さ。オチは見えているのに、進まざるをえない。妙な引力。

「神を見た犬」:
 一匹の犬の存在で、村の因習が根こそぎ変わる。見られることへの恐怖と、外聞。けっこう日本でもありそうな話。


 きわめて現実的なことを、ちっとも現実的でない世界観で語る。茫漠として、不安な世界と物語は、足元に寄せては返す波のように、じわりと忍んでさらりと引いていく。長篇「タタール人の砂漠」の方が、雰囲気はじっくり味わえるかも。


ブッツァーティの著作レビュー:
『タタール人の砂漠』


recommend:
イタリア幻想文学関係。
ロダーリ『猫とともに去りぬ』・・・かわいくユーモラス。
プリーモ・レーヴィ『天使の蝶』・・・自然と人間の関係について。

『天使の蝶』プリーモ・レーヴィ

[自然界に人間]
Primo Levi STORIE NATURALI ,1966.

天使の蝶 (光文社古典新訳文庫)

天使の蝶 (光文社古典新訳文庫)

 イタリアの化学者かつ作家であるレーヴィの短編集。

 著者は、第二次世界大戦中、ユダヤ人としてアウシュビッツに収容されて生還した経歴を持つ。その苦い記憶によるところがあるのか、それとも化学者であるからか、彼の人間と自然に対する目線はおもしろい。
 「自然界の物語」という原題のとおり、人間は自然との関係の中に描かれる。思い通りにしようとする人間と技術のパワーバランスは、時に崩れて時に逆転する。人間と現代文明へのアイロニーがあるが、そこまで直接的ではないので、肩は張らずに読める。

 ずいぶんと不思議な作品を訳したなあと思う。レーヴィで、しかも短編集。光文社のイタリア文学のチョイスのマイナーさが、アメリカ文学の王道さと反比例しているみたいだ。以下、各編の感想。


「ビュティニアの検閲制度」:
 「それでいいのか人間よ」という感じ。これで、本書の最後にも検印ついてたらもっとシニカル。

「天使の蝶」:
 表題。もし自分が不完全だとしたら、人は完全を望むものか?倫理の問題というよりは、哲学の問題かと。

「詩歌作成機」「低コストの秩序」「美の尺度」「完全雇用」「退職扱い」:
 NATCA社の営業、シンプソン氏シリーズ。いつも変な発明品を作るNATCA社の新作をシンプソン氏が説明する。なんかドラ○もんのような話だなあと。最後がディストピア的。かわいそう。


 新しい技術によって、人は新しい何かができるようになる。自然と人間の、利便と幸福の、和解と衝突は繰り返され。


recommend:
プリーモ・レーヴィ『周期律』 (元素の名を持つ小説群)
ブッツァーティ『神を見た犬』 (幻想イタリア短篇)
ベルナール・ル・ボヴィエド フォントネル『世界の複数性についての対話』 (17世紀の科学)

『宿命の交わる城』イタロ・カルヴィーノ

[文字以外で語る]
Italo Calvino Il Castello Dei Destini Incrociati , 1973.

宿命の交わる城 (河出文庫)

宿命の交わる城 (河出文庫)


 イタリアの国民的作家、イタロ・カルヴィーノによる、カードで語る物語。

 構成方法が変わっていておもしろい。 本書は本であるが、物語はまず文字ではなく、カードの図柄によって作られている。登場人物は言葉では語らない。

 彼らは自分たちの物語を、タロットカードで語りだす。 もちろんそのことを私たち読者が読むためには文字が必要だから、文字で描かれている。絵柄の後に文字がくるという、小説の「文字で語られる」大原則を少しねじ曲げたその発想。うーん、さすがカルヴィーノ

 「城」に集まった王や騎士、さまざまな人々が、自分の「宿命」について、カードで示し出す。どんな人の人生もそれぞれに物語。その物語は個別に完結しないで、それぞれが重なり合って、またひとつの大きな物語になっていく。 そんな壮大な世界と物語が、一枚のタロットカードに、一冊の文庫本に収まっているのが、なんだか不思議でもあり、おもしろくもある。

 私はタロットについて、カードの名前とその大まかな意味、逆位置などで意味が変わるという、ざっくりとしたことしか知らないが、それでも十分読むことができた。タロットの知識は、あったらそれはそれでひそやかな秘密の話が分かるような楽しみがあるだろう。だけどこれはあくまで「表象」の物語であって、知識を必ずしも必要としない。
 タロットは、配列と向き、読む人によって、どのようにも読み取れる。それがこの本で使われているルールでもある。


 人の運命を語ること、それをカードやカップのしみで占うことは、前時代的と見る人も多い。だけどこうしたものはおそらく、当たるか当たらないかの「確率」の問題ではなく、語るか語らないかの「表明」の問題なのだと思う(昨今のちゃちな占いは問題外として)。


recommend:
ロラン・バルト『表象の帝国』 (記号論で日本を読む)
アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』 (不可思議な世界)

『タタール人の砂漠』ディーノ・ブッツァーティ

[待てど待てど]
Dino Buzzati IL DESERTO DEI TARTARI ,1940.

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

タタール人の砂漠 (岩波文庫)



 イタリアの作家、ブッツァーティの待ちぼうけ小説。タタール人の住む砂漠の砦に赴任してきた軍人にまつわる物語。

 じっさい読んだのは数年前なのに、今でもはっきりと砂漠の砦の映像、雰囲気を思い出せる。たぶんこういう一冊は、一生つきあっていくものなのだろうと思う。

 「タタール人」「砂漠」。この単語群から、いったいどんな物語を想像するだろうか?
 タタール人は韃靼人のことで、「韃靼人の踊り」という音楽が有名だし、砂漠はいやおうなしに浪漫をかきたてる響きがある。さて、ではアラビアのロレンスのような、異国情緒あふれる英雄物語なのだろうか?

 ところが、この物語ではなにも起こらない。主人公は、砦を守る者として、ただひたすらタタール人が襲来してくる時を、それこそ冒頭に書いたような、浪漫をかきたてる「何か」がやってくるのを、待ち続ける。


 人として生まれたのなら、人生の意味を問うのはふつうのことで、どうせなら自分の人生は特別なものだと思いたい。「自分の人生は、ほかとは違って特別であり、ドラマティックな何かが起こるはずだ」と、想像したことのある人は、あんがい多いのではないだろうか。 私にも、いつか目の前に宇宙人が現れるとか、魔法が使えるようになるだとか、そんなことを考えていた記憶がある。

 砦の守り手にとってそれは「タタール人の砂漠」で、恐怖と好奇の入り混じった視線で、彼らが襲ってくるのを、ドラマが動き出すことを願いながら、日々を過ごす。 砂漠の向こうには、夢をかなえる何かがあって、時間という貴重な財産をすべて賭けてそれを心待ちにする主人公。 待って、待って、夢を見て、待ち続けて、さてその先は……。

 印象的なシーン。風のうなり声を部下の口笛と聞き間違える場面、母親が自分の足音で目を覚まさない場面。

 死と孤独が、砂漠のたんたんと透明な雰囲気の中で描かれる。現実にはほぼ何も起こっていないのに、先へ先へと読み進めたくなる物語。


recommend:
ベケット『ゴドーを待ちながら』 (待つだけの話の王様)
阿部公房『人間そっくり』 (舞台がほとんど動かないのにおもしろい)

物語の迷宮|『薔薇の名前』ウンベルト・エーコ

[物語の迷宮]
Umberto Eco Il Nome della Rosa,1980.

薔薇の名前〈上〉

薔薇の名前〈上〉

薔薇の名前〈下〉

薔薇の名前〈下〉

 一場の夢は、一巻の書物なのだ、そして書物の多くは夢にほかならない。


 記号論の大家、ウンベルト・エーコによる、スケールのやたらとでかい長編物語。

 舞台は中世、修道院。シャーロック・ホームズとワトソンそのものの関係の師弟修道士が、文書館をめぐる殺人事件に挑む。大枠はこんなところだが、細部の書き込みが多様ですさまじい。おそらく3人ぐらいの学者がいなければ、こんな本は書けないだろうに。

 じつにジャンル分けがしにくい小説だ。本書はエンターテイメントでもあり、学術的でもあり、ミステリーと記号論と歴史と宗教学に関する書物でもある。本の迷宮をめぐる物語は、その本自体もまた迷宮のようで、人によって、見方によって、さまざまな読み方ができるだろう。


 個人的に、おもしろいと思ったのは、この本の構成。遠い昔に書かれた書物を、現代の著者が見つけて、訳出していくという作りになっている。語り継がれていく物語、失われていく物語、これらがめぐりめぐって、今この手元にある。ふだんはうっかり忘れているけれど、多くの伝承や物語に、わたしたちはそうやって出会っている。

 グーテンベルクの印刷革命まで、「著者」という概念は存在しなかった。書物はすべて筆写で、本の制作や流通は、修道院などの限られた場所で行われていた。ある書物を写すたびに、書き間違いや意図的な書き換え、加筆などが行われる。読んでいる人間のメモが端に残る場合もある。

 だから本はそもそも「著者のもの」という認識はなく、むしろ手に渡る過程の間に変化する、可塑的な存在であった。

 本は閉じた世界ではなく、開かれていたといってもいい。広場のように、本は共有物だった。本を読めない人間に対しては、読める者が朗読して聞かせていた。1人で読む時でさえ、本は声に出して読むのが当然だった。黙読、という習慣が生まれたのは、じつは近世になってからである。本は誰もが、ぶつぶつと声に出しながら読んだ。その姿は、魔法使いの呪文に似ている。なぜ魔法を使う時にわざわざ呪文を唱えるのか? という幼いころの素朴な疑問には、じつはこんな歴史的な種明かしがにあうかもしれない。

 グーテンベルクの活版印刷が登場してから、署名が主流になっていき、「本は著者のもの」という認識が強くなる。そうして今、本はひとりで静かに読むもの、「閉じた存在」になった。そう考えると、本書は、1冊の「閉じた形式」の近代的な本でありながら、古来の「開かれた形式」の本にもなっている。

 修道士アドソが書いたものの筆写本を、さらに著者が書き写す。さて、それは本当の物語なのか? なんて考えることは、たぶん意味がない。おそらく物語は、こういうものなのかもしれない。


 あと、修道院の昼と夜の顔の違いも興味深かった。修道院は、人間の欲を抑圧するしくみを持っていて、だから抑圧された力は変な方向に歪む。だから、同性愛に走ったり、知識欲にとりつかれたり、殺人をしたりする。もっと素直に生きた方がいいと思うんだけど、それは自分が選択できる恵まれた環境にいるからだろうか。ううむ。


recommend:
ボルヘス『砂の本』 (本の不思議さについて。「バベルの図書館」は、迷宮の文書館を思わせる)
ナボコフ『ロリータ』 (多様な読みができる物語といえば)

渦の真ん中に立つ|『供述によるとペレイラは…』アントニオ・タブッキ

[渦の真ん中に立つ]
Antonio Tabucchi SOSRIENE PEREIRA. UNA TERTMONIANZA , 1994.

供述によるとペレイラは… (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

供述によるとペレイラは… (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

 イタリアの作家、タブッキの代表作。「供述によると、ペレイラは・・・」という書き出しが印象的な作品。タブッキはどこか幻想的な作風を持つが、この物語はどちらかといえば、ファシズムや社会主義に立ち向かう姿勢が描かれる。
 タブッキの中でも異色作。彼はイタリア生まれだが、ポルトガルをこよなく愛した。本作も、舞台は1938年のファシズムの影が忍び寄るリスボンである。


 夕刊紙の文芸欄を担当している記者ペレイラが、助手に雇った青年にまつわる、政治的な厄介ごとに巻き込まれる話。

 たとえば、言論弾圧下にある言論家には、大別すればだいたい次のようなものになると思う。 言論弾圧を苦々しく思いながらもそれに服従する(せざるをえない)人と、あまり考えずにその中で生きている人、そして数少ないながら、言論弾圧に真っ向から立ち向かう人。

 主人公はあきらかに、あまり考えていない人だった。 政治の話はカフェの給仕に聞く始末、それについて意見を言われても「僕の仕事は文芸だから」と一蹴してしまうような。

 その彼がなぜ、反政府運動に巻き込まれることになったのか。 小説の大筋はここにあるが、自分が意識、理解する前に、すでに道を歩き始めることもあるという、人生の不可思議さがここでは語られている。 うだるような暑さと砂糖一杯のレモネードと、ペレイラの奇妙なまでの静かさが対比しておもしろい。

 巻き込まれているという実感は、渦のど真ん中にきた時にやってくる。振り返ってみれば、確かにそこに兆候はあった。静かにあつい空気が、感じ取れる一冊。


recommend:
クッツェー『夷狄を待ちながら』 (気がつけば巻き込まれている話。こっちはもっとえぐい)
フェルナンド・ペソア『ポルトガルの海』 (タブッキが愛する作家の作品)

『猫とともに去りぬ』ロダーリ

[誰もつっこまない]
Gianni Rodari Novelle fatte a macchina ,1994.

猫とともに去りぬ (光文社古典新訳文庫)

猫とともに去りぬ (光文社古典新訳文庫)


 ユーモラスなイタリア文学短編集。

 物語の中では、あたり前のように、あたり前でないことが起こる。 つっこみ不在の喜劇性。それがこの物語たちのおもしろいところ。

 「なんでそんなに力が強いのか」という質問にたいして、 「重荷を背負うことに慣れっこなんです。大家族の生計がすべて僕の肩にかかっているのですから」と答える。そんなユーモアセンスが、これでもかと散りばめられている。

 世界遺産も大変なことになっている。 コロッセオは猫によって占拠。ヴェネツイアは水没の危機。 ピサの斜塔は宇宙人によって、持ち運びサイズにまで縮められる。 ユネスコが聞いたら泣きそうである。

 明るい笑いを楽しむには持ってこい。


reccomend:
イタロ・カルヴィーノ『木登り男爵』 (イタリア文学といったら彼。男爵おもしろい)