ボヘミアの海岸線

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『ヨブ記』

しかし わたしは全能者に語りたい、わたしは神に抗議したいと思うのだ。——『ヨブ記』

理不尽な神に抗う

神様はあなたたちの行いをすべて見ています、だからいい子でいるのですよ、そうすれば神様は神の国へ迎えいれてくれますという言葉が、百歳のシスター・イメルダの口癖だった。教会の幼稚園にかよっていたころ、いたずらをすると百合に囲まれたマリア像の前でひざまずき、わたしたち悪童どもは許しを乞いたものだった。

神への畏怖は教育に組みこまれていたが、五歳のわたしにとって神の千里眼への恐れや天国への憧れはあまりなく、むしろまばゆい五月の木漏れ日の下で、わたしは神の存在を信じた。こんなに美しい世界をつくれるのは、神だけではないかと。

無邪気だった。わたしの目には、血で血を洗う闘争も、緑色の目をした嫉妬も、力を欲する弱さも、愛を求める咆哮も、望んで叶わぬ痛みと悲しみも、痛みと怒りの連鎖と負債の継承も、なにも見えていなかった。


人間はいつかおのれと世界の汚濁を見る。他者からの暴力に驚き、傷と痛みにおののいたとき、神を信じる人間はとまどう。

なぜ、すべてを見とおす全能の神がいるなら、これほどの悪と苦しみがあるのだろうか?
なぜ、誠実に生きようとしている自分よりも、他者を利用する悪徳が栄えるのだろうか?
神はつねに正しいから災厄をもたらすのか、それとも神は誤ちを犯すのだろうか?

すべてを神に与えられ、すべてを神に奪われた男ヨブは、神を心の底から信じながら抗議し挑戦するという、およそ人類には不可能なことをやってのけた。

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)

『ヨブ記』は紀元前5世紀ごろに成立した古い物語で『旧約聖書』におさめられているが、その内容はかなり異端的だ。聖書の説話はだいたい、偉大なる神に服従する人間の話、良い人間が報われて悪しき人間が滅びるという因果応報の話をもちいて「神を恐れよ、正しく生きよ」と説いてくる。しかし、『ヨブ記』は罪を犯していない者が災厄に見舞われて神に疑問を投げかけるという物語で、およそ聖書の中にあるとは思えない。


ヨブは、神を敬い、悪とは無縁の高潔な日々を送っていた。神はおおいにヨブを祝福し、財産と名誉を与えていた。すると神の「敵対者」(サタン)が神のもとに現れて「あなたの手をのばして、彼の持物にふれてごらんなさい。あなたの顔に向かって呪わないではすみますまい」とそそのかす。

ここでサタンは「ヨブは信仰にたいする報酬があるから神を敬うのだ」という現世利益を求める信仰を指摘している。目には目を、歯には歯を。高潔な日々と信仰には恩寵を。これはわたしたちにもなじみの深い考え方で、願いの成就や苦しみからの解放、よりよい幸せを求めて神前にむかって柏手を打つ。自分やその共同体に不幸をもたらす神を、信じることができるのか? サタンの問いは、宗教を求める人間の心臓に触れてくる。

神はサタンの言い分を認め、ヨブを試すことに同意する。サタンはヨブの家畜と下僕、家族を皆殺しにするが、ヨブは「わたしの財産や幸福は神が与えたものだから、神が奪うものでもある」と信仰を捨てず、サタンは敗退する。

ここまではよく見られる展開だが、ここから先が『ヨブ記』である。サタンはめげずに「ヨブの財産だけではなく彼の肉体そのものを痛めつければ、神を呪うはず」といい、神はサタンがヨブに地獄の皮膚病をもたらすことを認める。お見舞いにきたはずのヨブの友人がなぜかヨブを責めに責めるという鬼畜ぶりを発揮して、「お前が苦しんでいるのは、自分の罪のせいだ」と非難するが、ヨブはその非難を拒絶する。「自分はなにも罪は犯していない、なのに神はこのような仕打ちをする」と告白する。

生きながら身を焼かれ腐る地獄の苦しみのなかで、ヨブは「なぜ死なせてくれないのか」と絶叫しながら、「わたしは神に抗議する」といって劇烈きわまる弁舌をふるう。

君たちは知るがよい、わたしを不法に使い
わたしを網なわで囲まれたのは神なのだ、と。
わたしが「暴虐」と叫んでも答えを得ず、
わたしが助けを叫び求めても審判はない。

神を呪うでもなく、お前など神ではないと拒絶するでもなく、神の怒りに触れるような誤ちを知らずのうちに犯したのではないかと自分を責めるでもなく、ヨブはあくまでおのれの正しさを全面的に信じ、神の存在を全面的に信じ、「神は不法だから抗議したい」と、ただの被創物である人間が創造者である神に挑戦するのだ。


ヨブは人間なのだろうか? そんなことを考えずにはいられない。

サタンやヨブの友人たちが主張するところの、「人間は幸福という恩寵と見返りを期待しているから神を信じる」という現世利益の話、「すべてを見とおす神は正しい裁きを行うのだから、罰を与えられているなら悪いことをしたのだ」という因果応報について、古今東西の宗教はこの二千年をかけて議論し、実践してきた。だから彼らが主張することは、ヨブに比べるとわかりやすい。

ヨブがすさまじいと思うのは、自分の無実を疑わず、正しい裁きがないのはなぜかと神に問いかけているところだ。神の存在を信じながら、自分の正しさも信じている。神は全能だが、いつも正しい者には恩寵をもたらすわけでも、悪しき者には罰をくだすわけでもない、なぜなら自分は正しいのに不法に苦しめられているからだ、と言い切る。この論理展開が超人的である。反逆的のようで、服従的でもある。

あなたの掌をわたしから遠ざけてください。
あなたの畏れでわたしを畏怖させないでください。

「神は良き者も悪しき者も滅ぼされる」と、ヨブは神の裁きの不条理を舌鋒鋭く指摘する。「彼は罪なき者の困窮を笑っている」と、神の存在を信じながら言える人類がどれほどいるだろうか。

どちらも同じなのだ、だからわたしは言う、
全き者も悪しき者も彼は滅ぼされる、と。
大水が突然人の生命を奪っても
彼は罪なき者の困窮を笑っている。
地は悪しき者の手に委ねられている。
彼ではなくて、これは誰の仕業か。

神を信じながらも罰を恐れずにこれほどもの申せるのは、ヨブほどの不条理な苦しみを味わっている者しかできない。おそらく神を信じたことがいちどでもある者がいずれ突き当たる神への疑問、この世界という不条理についての問いを、作者はヨブに語らせた。


なぜ全能の神がつくった世界が、これほどに不完全なのか? 

これは、あらゆる宗教と学問の根本となる問いだ。人類は、理由と意味を求める生物である。これほどの苦しみには理由があると思いたい。ただの気まぐれ、ただの乱数で苦しみを受けなければならないのなら、希望も乗り切る力もわいてこない。

だから、人間は「神」を創造したのだ。「不完全な世界」の理由について、聖書は「アダムとイブの罪のせいでありもともとは完璧だった」とし、ギリシャ神話は「火を盗んだプロメテウスに怒ったゼウスが、パンドラの壺をよこして災厄をふりまいた」と説いている。

世界を説明するための装置として神は機能し、世界を攻略する技能として祈りや儀式は機能する。しかしヨブは、装置は不条理なのだと言ってしまっている。これは恐ろしいことだ。因果関係がないならば、攻略方法など意味がない。そして、人類はこういう面倒くさいことをあまり求めていない。『ヨブ記』ができてから二千五百年の歴史、神学と科学の変遷がそのことを証明している。


終幕では、ついに神が雷鳴とともに現れ(このシーンがハリウッドめいていてなんかすごい)、ヨブの問いに答える。わたしには神の答えが響かなかった。神の言葉よりヨブの言葉のほうがよほど突き刺さるものがある。

実際のところ、神は沈黙するばかりで、わたしたちの嘆きにも祈りにも応えはしない。世界は変わらずに理不尽で、ヨブの問いは二千年が経ったいまもまだ放擲されたままだ。

人間が体をつくる細胞ひとつひとつの声など聞きなどしないように、神もまた人間の声など聞きはしないのだとしたら、この断絶は絶望的であり、神はわれわれにとって不在であるに等しい。自分への圧倒的無関心を前にしてもなお、人間は相手を受けいれ、愛することなどできるものなのか? もしこの永遠の片思いが信仰なのだとしたら、それはもはや人間としてのなにかを失わなければ到達できない境地のような気がする。信仰は愛と同じように不可解で理不尽で、狂気なのだ。

西洋文化の根っこにありながらすべてを突き崩そうとする、激震地のような書物。

人は死んでも生きるのだろうか。
わたしはわが賦役のすべての日を絶えよう、
解放のときの来るまで。

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