ボヘミアの海岸線

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『洪水の年』マーガレット・アトウッド|暗黒企業、エコカルト、世界の終末

光がなければ、望みはないが、闇がなければ、ダンスはない。

――マーガレット・アトウッド『洪水の年』 

 

巨大企業、エコカルト、世界の終末

旧約聖書の物語「ノアの洪水」は、世界滅亡の話だ。世界を150日間の洪水が襲って、箱船に乗ったノア夫婦と動物以外はすべてが死んだ。

いま私たちが生きる世界は、おそらく洪水だけでは滅亡しない。だが、目に見えない「水なし洪水」がきたらどうだろうか?

洪水の年(上)

洪水の年(上)

 
洪水の年(下)

洪水の年(下)

 

 

マッドアダム三部作、第1作

 

「マッドアダム三部作」の第2作である本書は、「水なし洪水」によって人類が滅亡するまでの物語である。 『オリクスとクレイク』と同じ世界の話ではあるものの、前作とは独立した登場人物のため、どちらから読み始めてもかまわない。

『オリクスとクレイク』では巨大企業と特権階級の物語が語られた。『洪水の年』は「平民」女性と、「神の庭師」と呼ばれるエコ宗教集団にまつわる物語だ。

 

  <水なし洪水>が破壊と同時に浄化をもたらし、世界中が今や新しいエデンでありますように。今はまだ新しいエデンではなくとも、間もなくそうなりますように。

語り手はトビーとレン、ふたりの女性だ。どちらも「神の庭師」に所属している。どちらの人生もそれぞれに過酷で、周囲に振り回されている。だが、彼女たちはやがて人生を自分で動かしていく。搾取してくるものから逃れ、前を向いて、自分の力と頭を使ってタフに生き延びる。

 アダム一号はよく言っていた。波を止められないのなら、船で行けばいい。修復不可能なものでも、まだ使えるかもしれない。光がなければ、望みはないが、闇がなければ、ダンスはない。つまり、悪いことにも何かしら良い面がある、挑戦を引き起こすから。

2人の女性がシビアな現実を生き延びるサバイバルストーリーとしておもしろいが、他にも見どころがある。

まず、最大の謎――なぜ人類が滅亡したのか、背景にうごめく力と思惑はなんだったのか――がじょじょに見えてくる展開がうまい。『オリクスとクレイク』『洪水の年』2つの側面から見ると、陰にうごめいていた力が明らかになる(この2作では全貌は明らかにならない、おそらく第3作ですべてがつながるのだろう)。

世界観もよく作りこまれている。なんの肉を使っているかがわからない「シークレットバーガー」、極悪囚人たちが互いに殺し合うショー型監獄を生中継する番組、大企業の製品を使って自己改造する美容クリニック、臓器を提供するために改造されたブタ、それらすべてを取り仕切っている大企業コープセコー。

これらの細部はどれも現実の延長線にある。私たちの世界では倫理がかろうじて勝って留まっているだけで、いつこうなってもおかしくないものばかりだ。違う世界戦の話なのにどれも見覚えがあって、くらくらする。 

そして「神の庭師」たちも、いかにもありそうなエコ宗教だが、どこか不穏だ。彼らの説話はキリスト教をモチーフにしていて、平和主義のように見えるが、穏やかな言葉の裏には巨大な不穏がちらついている。だんだん言っていることが歪んできて、後半になるにつれて緊張感が高まってくる。

捕食獣の日に私たちが瞑想するのは、<第一級捕食者>としての神の面です。急で激しい神の顕現。そんな<力>の前での、人間の小ささと恐怖心、私たちの<ねずみ性>とでも申しましょうか。壮麗な<光>の中で個が消滅させられる感じです。

 ……食べるのと食べられるのとでは、どちらがより恵まれているでしょうか? 逃げるのと追うのでは? 与えるのと与えられるのでは? これらは本質的には同じ質問です。このような質問はあもうすぐ仮定のものではなくなります。どんな<第一級捕食獣たち>が外をうろついているか、わからないからです。

 

アトウッドの魅力は、大きい物語のうねりと謎、細部の作りこみがどちらもうまく、かつ現代に生きる私たちが「自分の物語になりうるかもしれない」と思わせる現実味にあると思う。

登場人物もいい。『オリクスとクレイク』『洪水の年』ではともに、社会的地位がなく権力者にとって価値がない人たちがタフに生き延びようとする。その姿がまぶしい。 

じつに胃が痛くなる世界で、私などはとても生き延びられる気がしないが、彼女たちは暗黒に塗りつぶされた世界で、全力でダンスする。たとえ観客が誰もいなくても、死がそこら中に転がっていても、彼女たちのために彼女たちはダンスして闇の中で笑う。なんと人間だろうか。そういう描写が私はとても好きだ。

 アダムたちとイヴたちはよく言っていた。“私たちは自分たちが食べたものからできている”って。でも私が言いたいのは、“私たちは自分たちが望むものからできている”ということ。もし希望を持てないのなら、何をしたって無駄でしょ。

 

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マーガレット・アトウッドの著作レビュー

 

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 マッドアダム三部作をじゅうぶんに楽しみたいなら、聖書の知識が必要だ。聖書は確かに楽しいのだが、とにかくいろいろな説話が多いので、あまりなじみがない人は、聖書そのものに手を出す前に、概要を知ることをおすすめしたい。