ボヘミアの海岸線

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『虫の生活』ヴィクトル・ペレーヴィン

[君らは虫だ]
Виктор Олегович Пелевин Жизнь насекомых,1995.

虫の生活 (群像社ライブラリー)

虫の生活 (群像社ライブラリー)

 「すげえや……音も立てずに飛んでるぜ」
 「これがアメリカってやつだ」とアーノルドがそう決めつけた。(「ロシアの森」より)


 「夏日。蚊の季節。ペレーヴィンの『虫の生活』を読んだ後は、蚊1匹つぶすだけでも物語を感じてしまう」とつぶやいたのは、『虫の生活』を出版した群像社の中の人だった。いまだに自宅でぶた蚊取りをがんがん炊いて、夜な夜なセミ爆弾や特攻コガネムシどもと戦っている身としては、なるほどそうだよねとうなずくわけで。そういうわけで、虫と生活しながら『虫の生活』を読む。


 ロシアの作家による、人間の生活、あるいは虫の生活を描いた連作短編集。チェコでは男が巨大な虫に変身し、ポーランドでも親父があぶら虫になったが、いま思えば変身したらしっぱなしの彼らは、「存在」としてはそれなりに常識があったのだと思う。ペレーヴィン描くロシアでは、そこかしこに行く人々がそろって虫になり、しかもまた人間に戻る。いや、戻るという形容は正しくない。人間として2本足で歩いていたはずなのに気がつけば足は6本になり、少女の吸盤のような口には口紅が塗られている。彼らは人間であると同時に虫である。登場人物(虫)の描写が緻密であるにも関わらず、否、緻密だからこそ、まるで異なる写真のネガフィルムを重ね合わせたみたいに、想像力が焦点を結ぶことを拒む。


 呑んだくれのおじさんは蚊であり、親子はフンコロガシであり、夢見る女は蟻であり、働く若者は蝉である。ときたま、光を求める蛾が蛍になったり、蝉がやさぐれてゴキブリになったりする。ゴキブリとテントウムシから蚊が生まれ、その蚊は蠅と恋人同士になったりもする。
 「ロシアの森」で、3人の紳士がベランダから落ちた瞬間に飛んでいくシーン、「イニシエーション」で、父親が両手いっぱいの糞を子供にやるシーンでは度肝を抜かれた。「マルクス・アウレリウスに寄せて」のラスト、パイプを吸っていた人間がパイプの中に入る「黒い騎士」など、「人間の目」と「虫の目」が絶えず交錯する世界観にぐらぐらくる。あと、飛んでいるシーンが妙にリアルだなあと思ったら、作者は元パイロットだったらしい。納得。


 彼らはお互いに個人としての物語を語るが、別の物語では虫けらのように殺される存在である。彼らは殺し殺され、つぶし踏まれ、他の物語における主人公を見向きもしない。「生き物地球紀行」を見て「動物が殺されるのはかわいそう」と言いつつハンバーグをほおばるような、無邪気な偽善に塗られた感傷を、ペレーヴィンはあくまでも軽く、ユーモアを交えて皮肉る。

 「いいかい、死人の同情を引くものはすべて、きわめて単純なメカニズムにもとづいているんだ。もし死人に、そうだな、蠅取り紙にかかった蠅でも見せてみろ、奴はそれをひったくるだろうさ。でも音楽をバックに、蠅取り紙にかかった々蠅をみせてみろ、しかもその蠅は奴自身だとほんの一瞬でも感じさせてみろよ、自分の亡骸を哀れに思ってすぐにも泣きだすだろうさ。次の日には奴みずから蠅を十匹押しつぶすだろうがな」(「蛾の走光性」より)

 さらに彼は蝉たちが何を歌っているのか――より正しく言うなら、嘆いているのか――を悟った。そして彼もまた喉元にある巾広の薄板をこすり合わせて、一生を無駄に過ごしてしまった、そもそも無駄に過ごさないことなど不可能であり、こんなことはすべて嘆いてみてもまったく無駄なことだと歌い始めた。(「PARADISE」より)

 ユーモアとアイロニーの先には、「小さき者」への悲しみがある。彼らの営みはすべてフンコロガシが転がす地球での物語。宇宙にとっては人も虫も同じなのだろう。ぶーん、ぷちっ。


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