ボヘミアの海岸線

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『舞踏会へ向かう三人の農夫』リチャード・パワーズ|写真という爆心地

写真を見るだけで、三人が舞踏会に予定どおり向かっていないことは明らかだった。私もまた、舞踏会に予定どおり向かってはいなかった。我々はみな、目隠しをされ、この歪みきった世紀のどこかにある戦場に連れていかれて、うんざりするまで踊らされるのだ。ぶっ倒れるまで、踊らされるのだ。

リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』  

写真という爆心地

『舞踏会へ向かう三人の農夫』の写真を撮影したドイツ人写真家アウグスト・ザンダーは、最も好きな写真家のひとりである。私にとって『舞踏会へ向かう三人の農夫』はパワーズの小説というよりは「ザンダー本」で、「表紙がザンダーだから」という理由だけでこの本を買った。

なぜザンダーが好きかといえば、被写体と目が合うからだ。かつて私は東京都写真美術館で開催されたザンダー展で、「若い農夫たち」からの視線を感じて振り返ったことがある。そんな経験はめったになかったから驚いた。そして本書を読んで、さらに驚くことになる。パワーズよ、お前もか。

 

 

本書は3本の物語ラインが同時並行で進んでいく。

1本目は、1984年のアメリカ・デトロイト美術館で「若い農夫たち」の写真を見て、強烈に惹かれる男Pの物語。Pは、左に写る農夫が自分に似ているという理由から、ザンダーの写真を「私の写真」「私の農夫」と呼び、写真について調べていく。

2本目は、1912年のドイツ、写真で永遠に残された「若い農夫たち」アドルフ、ペーター、フーベルトの物語。ドイツの農村に暮らす3兄弟は、それぞれ第一次世界大戦に駆り出される。3人のうちペーターは新聞記者になる(記者になった経緯が適当すぎてすごいが、当時はあったことなのだろう)。

3本目が、Pと同じく1984年のボストンに生きる、雑誌編集者ピーター・メイズの物語。メイズは窓から見かけた赤毛の女性にとり憑かれ、彼女を探しているうちに、自分が「大いなる遺産」の相続人かもしれないことに気がつく。 

 彼らは、互いに顔をはちあわせず、言葉を交わすこともない。生きている場所も時間も所属も興味も違う。だが、皆が別の物語線の誰かとつながっている。

 

彼らをつなぐ媒介は「写真」と「戦争」だ。P、農夫ペーター、編集者ピーター・メイズ、すべての人生に写真と戦争が寄り添っている。

 選択肢は明快だ。スナップ写真を撮影(shoot)するか、ライフルを発砲(shoot)するか。

「20世紀はメディアの世紀だ」「20世紀は戦争の世紀だ」と言われるとおり、メディアと戦争は密接に関係している。情報を複製するコストが下がったため、メディアの影響力が爆発的に増大した。20世紀はラジオ、テレビ、インターネットなど多くのメディアをうみだしたが、パワーズは「写真と20世紀」にしぼって語る。

すべてのメディアは媒介であり、点と点をつなぐ線である。本書ではザンダーの「3人の農夫」が媒介となり、異なる時代と場所に生きる男たちの人生をつないでいく。

一般的に、媒介でつながれるのは「情報の送り手」(写真家ザンダー)と「情報の受け手」(写真を見る者)だが、パワーズがつなごうとするのは「見られる者(農夫たち)」と「写真を見る者(読者を含む登場人物たち)」だ。

 見る者と見られる者とは、融合して不可分のひとまとまりを成す。距離を置いて物体を見ることは、すでにその物体に働きかけること、それを変えてしまうことであり、みずからも変えられてしまうことなのだ。

さらに、写真を見た瞬間に「自分と他者と世界が変わる」という。「複製によって、作品を製造する営みと鑑賞する営みは、真に双方向なものとなる」とパワーズは書いている。

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インターネットなら双方向のやりとりができるのは当然だが、写真は、被写体を変えられず(3人の農夫を4人にはできない)、3人の農夫と会話できるわけでもない。なのに「双方向」とはどういうことか。

いまや私にはわかった。驚愕に彩られた彼らの視線の半分は、レンズの向こう、写真家の向こう、さらにはフレームの向こうに向けられている。それは私に向けられているのだ。

 

本書において、写真は、自分と他者と撮影者、そして世界が、双方向に影響しあう「爆心地」である。ここで言う「双方向」は、3つのレベルがある。

まず「撮影者」と「被撮影者」の双方向性について。どんなに中立性を保とうとしても、観察する者と観察される者が接触した瞬間に影響が出る。作中でも、農夫ペーターが記者として活動している時、兵士たちが自分の前ではふだんとふるまいを変えることを目撃している。

観察によって変わらない行為はない。観察者を巻き込む行為を伴わない観察はない。 

次に、「写真を見る者」と「写真に写って見られる者(農夫)」の双方向性について。下の4枚の農夫たちは同じコピーだが、人によって意味あいが変わる。Pの農夫、ペーターの農夫、ピーター・メイズの農夫、読者の農夫は、それぞれが微妙に違っている。

他人を理解することは、おのれの自己像を修正することと不可分だ。

自分を創造すること、自分を説明することとは、並行して、分かちがたく進んでいく。個人の基質とは、自分自身に注釈を加える営みそのものだ。

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最後に、「個人」と「世界」の双方向性について。パワーズによれば、個人の集合体が世界と時代を形づくる。そして、時代もまた個人を形づくる。お互いが双方向に影響しあっている。この考えは、パワーズの問いへつながっていく。

世界大戦という、あの狂った舞踏会は、「誰」の手によって始められたのか? 

「ごく少数の意思決定者(独裁者たち)が決めて、他の人々は巻きこまれただけの被害者である」という歴史解釈にたいして、パワーズは「否」と言い、「すべての人は当事者である」と語る。これは、人によっては居心地が悪い主張だ。巻きこまれただけの被害者として振る舞ったり、なにも関係がない他人として見ないふりをしたほうが、楽なことはたくさんある。

いかなる犬も純血種などではない。写真というものの最終的な神秘は、撮影者、被写体、鑑賞者という、最終結果を生む上でそれぞれ必要な三者が、互いの周りを用心深くぐるぐる周り、めいめい自分の都合に従って相手を定義し合うところにある。 

 

本書は、「個人と他者と世界が、メディアという媒介をつうじて、どのように双方向に影響を及ぼし、未来を形成していくか」という問いと回答なのだと思う。

個人は弱く、権力層や世界に振り回される存在なのか。それとも、世界に参加して影響を与える存在なのか。

パワーズは個人の影響力を信じている。同時に、世界や他人によって更新され続ける必要があるとも信じている。「自分は無力で世界を変えられない」と諦めず、自分の考えに固執して他者を排除せず、世界と他者と対話し続ける世界を提示している。メディアは、個人と他者と世界が双方向に干渉しあう「道」である。

一方、私にとって世界は「人間の意思を越えて暴走しうるシステム」なので、パワーズの主張はややまぶしすぎた。「私たち」と「やつら」の断絶は、メディアによって軽減もするし、増幅もする。

農夫が向かった舞踏会は、今も形を変えて狂い続け、断絶は深まっていく。本書が出て30年以上が経過したいま、パワーズの答えがどうなるのかが気になっている。

彼らは平和使節を待っている。驚きに彩られた、ひそやかなポーズとともに待っている。彼らの視線の先、レンズの奥底からは、がらんどうの、ぼんやりとした無の国が浮かび上がる。ぬかるんだ道を彼らは歩く。フレームの外、右側の白い縁の彼方の、若い娘ーー彼女をアリシアと呼ぼうーーがしかるべく彼らを待つ舞踏会に向かって、もしくは二十世紀という名の、混じり気なしの暴力行為に向かって。

 

リチャード・パワーズの感想レビュー

メディア論セカイ系の波動がより高まっているので、私は囚人のほうが好き。

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