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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『氷』アンナ・カヴァン

 今ではもう私たちのどちらかが犠牲者なのか判然としない。たぶん互いが互いの犠牲者なのだろう。 —ーアンナ・カヴァン『氷』

愛の絶対零度

 これぞ唯一無二。手の上に、虹色にかがやく絶対零度の氷塊がある。この氷塊が、わずか数百枚のページでできていることが脅威的だ。世界も魂も人間関係も愛も、なにもかもが氷点下なのに、それでも温もりを求めて絶叫する。壮絶である。人間とはそう簡単に絶望できるものではなく、むしろ絶望の包囲をかいくぐり、針の穴のような希望を渇望する生き物なのだと思い知る。

氷

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)

 全世界が死に向かっている。氷はすでに何百万人もの人々を埋葬し、生き残っている人々も、抗争と無意味な逃走に奔走しながら、しかし、誰にも打ち負かすことのできない敵が迫ってきていることはわかっている。

 世界はどうやら突然の氷に襲われ、終末まぢかであるらしい。だが、それらしい説明はなにもない。ただ、氷が圧倒的な力でもって前進し、世界はなすすべもなく死に向かっていることだけがわかる。
 しかし、主人公の男にとっては世界の終末などどうでもよいらしく、夢幻の氷めいたアルビノの少女を、文字どおり地の果てまで追いかけていく。彼女を支配する長官と夫から「彼女を助けたい」と男は言うが、彼の思いは恋や愛ととうてい呼べるしろものではなく、ドライアイスのように触る者すべてを低温火傷させる。

 「愛情をこめて腕を折るのはこの私でなければならない」「彼女を殺していいのは私だけ」と、欲望を全開にして少女を激烈に渇望する、ふりきっていかれた男だ。少女が男を受けいれなければ激昂し、捨てるとわめきながらも地べたを這いずってでも追いかける。愛というよりは呪いに近い。

 少女の眼から大粒の涙が氷のかけらのように、ダイヤモンドのようにこぼれ落ちたが、私は心動かされなかった。私には、それが本当の涙だとは思えなかった。少女自身がとても本当の存在には思えなかった。青白く、ほとんど透きとおっているような少女は、私が夢の中で自分の快楽のために利用する犠牲者だった。

 そしてまったく唐突に、強烈な氷のビジョンが、天から落ちてきて突き刺さる。車の窓をあければ、四方を氷の壁に囲まれて押しつぶされ、またなにごともなかったかのように車が目的地に着くといったぐあいだ。

 と、その時、驚異的なものが現れた。この世のものとは思えない超常的な光景。虹色の氷の壁が海中からそそり立ち、海を真一文字に切り裂いて、前方に水の尾根を押しやりながら、ゆるやかに前進していた。青白い平らな海面が、氷の進行とともに、まるで絨毯のように巻き上げられていく。……その光景を見降ろしながら、私は同時に様々なものを見ていた。私たちの世界の隅々までを覆いつくす氷の世界。少女を取り囲む山のような氷の壁。月の銀白色に染まった少女の肌。月光のもと、ダイヤモンドのプリズムにきらめく少女の髪。私たちの世界の死を見つめている死んだ月の眼。

 この眩暈がするビジョンの切り替えがえんえんと続く。右足は地球を、左足は冥王星を踏みながら断崖絶壁を綱渡りしているようなものだ。正気と生命力が、氷の刃でどんどんとこそげ落とされる。

 しかし、男にとっては、超常的なビジョン、命と体温を奪う氷ですら祝福である。人類を絶滅させる氷は、青白い夢幻の少女を思い出させるトリガーにすぎない。この少女は人妻で、男たちの欲望の犠牲者でありながら、娼婦めいたこともする魔性を持ち、しかもけっこうわがままだ。「それじゃ、私がそのようなことを言わなければ、ずっと私と一緒にいてくれたと言うの?」などという、魔性ヤンデレ気味のせりふを放つ。

 ふたりの男にひとりの少女というシンプルな三角関係でありながら、どの人間関係も冷えきっており、温もりや情愛などは地の果てまで見つからない。あるのは支配欲と嫉妬、冷たい熱狂であり、誰もかれもが自分のことしか考えていない。じつに見苦しい。

 じつに見苦しいが、美しいのだ。カヴァンはこの醜悪きわまりない人物像と人間関係を瞬時冷凍してこっぱみじんに砕き、その破片が七色のプリズムとなって降りそそぐ。だから、とことん醜いのに、とことん美しい。こんな離れ業が可能なのかと、呆然とさせられた。

 この狂乱の舞踏の中では、暴虐な行為を冒す者と犠牲者とを区別することなどできない。いずれにしても、そんな区別はもはや何の意味もない。死の舞踏のさなか、踊り手たちはみな、無の崖っぷちでくるくると旋回しているのだから。

 もうひとつ呆然としたのは、この無慈悲で支配的で心をつぶしにかかってくる冷たい世界は、おそらくカヴァンが見ていた世界そのものだったのではないか、ということだ。彼女は自分を犠牲者だと感じながら生き、人間と世界の冷酷さに絶望しながらも、南の島でインドリがなかよく寄りそい歌うような温もりを、気が狂うほどに渇望していたのではないだろうか。男のように、あるいは少女のように。

 恐るべき愛の極北、魂の絶対零度、頭蓋骨の中が真っ白に吹きさらされた。

 その運命から少女を救えるものがあるとしたら、それは唯一、愛だけだった。だが、少女は決して愛を求めようとしなかった。……結局、残ったのはあきらめだった。運命に逆らって闘っても意味はない。少女はスタートする以前から自分が敗北していることを知っていた。

Anna Kavan "Ice", 1967.

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