キリキリソテーにうってつけの日

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『終わりよければすべてよし』ウィリアム・シェイクスピア

 人間の一生は、善と悪とをより合わせた糸で編んだ網なのだ。われわれの美点は欠点によって鞭打たれることがなければ高慢になるだろうし、われわれの罪悪は美徳によって慰められることがなければ絶望するだろう。——ウィリアム・シェイクスピア『終わりよければすべてよし』

アンチ・ハッピーエンド

 「終わりよければすべてよし」というタイトルは皮肉なのか。そう思わざるをえないほど、終わりもすべても何もよくはない、なんともすっきりしない物語だった。
 
 身分違いの恋をした女性が、試練を乗り越えてみごと意中の男と結婚する——主軸はありふれたシンデレラストーリーだが、細部は幸せなおとぎ話からはかけ離れている。

 貧しい名医の娘ヘレナは、父親が死んだのちに、かつて父が侍医をつとめた故ロシリオン伯爵の家に引き取られる。ヘレナは伯爵の息子バートラムに心を寄せるが、バートラムは土地を出て、王宮へと行ってしまう。

 バートラムへの恋心を募らせるヘレナは、不時の病におかされている王を、父親が残した秘伝の処方箋によって治癒しようとこころみる。報酬は、バートラムとの結婚を王に認めてもらうこと。しかし、バートラムはヘレナの身分が低いからと、「この世に妻があるかぎり、私はフランスになに一つもたぬ」と言い捨てて、初夜に逃げ出してしまう。

 
 登場人物たちが、そろいもそろって性格破綻している。バートラムは、男の悪いところをかき集めたような男で、身分の低いヘレナをこれ見よがしに軽蔑し、妻がいる身であるにもかかわらず旅先で女を口説き、結婚を誓いながらベッドをともにしたとたんに捨てる。嘘がばれそうになると、保身のために、相手は売女で自分は被害者なのだと、厚顔無恥にも言ってのける。

 バートラムはわかりやすく低俗な人物だが、この男を愛し、結婚するために手練手管を尽くすヘレナの心がわからない。ヘレナは、伯爵未亡人に「わが子」と愛され、王からも高潔な人物として認められている。

 誠実で高潔な女性であるところのヘレナは、見苦しいバートラムの愚行を知っても、自分がかけらも愛されていないとしってもなお、結婚を押し進めようとする。その意思と実行力は不可解なほどに強く、まるで「結婚」という唯一の目標をインプットされた暴走マシーンのようで、読み進めるほどにヘレナの不気味さが増していく。

 不自然な人たちは他にもいる。伯爵の未亡人や王、老貴族はみな、こぞってヘレナの高潔さを誉め、バートラムがわがままだと非難する。

王 奇妙な話だ、われわれの血は、
いっしょにすれば、その色も、重さも、温みも、
まったく違いがなくなるのに、それをあたかも、
大きなへだたりがあるように区別するとは。

 王の言葉には同意する。同意するが、この時代の王が、そんなことを言うだろうか? 伯爵の未亡人は、わが娘と呼ぶヘレナを軽蔑するバートラムに怒り、親子の縁を切ろうとまで言い切る。貴族が、身分や血のつながりよりも精神の高潔さを優先させるだろうか? 清廉潔白でやましいところがなにひとつない政治家と同じように、彼らの存在は幻獣めいている。

 
 結婚は終着点ではなく始発点だが、この劇では結婚の承諾で終わっている。確かにここで物語をとめてしまえば「終わりよければすべてよし」ではある。だが、物語とは違い、人生には切りのよい終わりなどない。ハッピーエンドは存在しない。人の死によりその人が主人公の物語は終わるが、より大きな物語は王の死も道化の死も、どんな命の消滅をもものともせずに続いていく。

 ハッピーエンドを思わせるタイトルでありながら、これから先の幸せを予測させない本劇はむしろ、アンチ・ハッピーエンドの姿勢を貫いている。タイトルも登場人物もすべてがしらじらしく、まがいもののようであった。この劇の存在自体が、皮肉なのかもしれない。

終わりよければすべてよし、終わりこそつねに王冠です、
途中はいかに波風立とうとも、最後がすなわち名誉です。

William Shakespeare "All's Well That Ends Well",1603-04.

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