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『井伏鱒二全詩集』井伏鱒二

[サヨナラダケガ]

井伏鱒二全詩集 (岩波文庫)

井伏鱒二全詩集 (岩波文庫)


 井伏鱒二の『厄除け詩集』は、学生にとって災厄である。井伏の言葉は、ぐるぐるする心を鮮やかに刺してくる。太宰、ドストエフスキーあたりに一度でもはまったことがある人なら、きっとうなずくだろうと思う。
 その太宰も、井伏の言葉に影響を受けた。「さよならだけが人生だ」という井伏の名訳を太宰が引用したというのは有名な話である。実際、この言葉は太宰を始め、多くの作家に影響を与えてきた。寺山修二は、この詩に対して「さよならだけが人生ならば 人生なんかいりません」と返歌を書いた。それだけ、この名句の放つ印象は強かったのだろう。


 さて、本書は上記で紹介した『厄除け詩集』の他に、井伏が日本語で書いた生涯の詩をすべて納めている。上田敏堀口大學と同じように、井伏鱒二は外国の詩をただ訳出するだけでなく、完全に「日本語の詩」として置き換えた。今ではとても考えられない名人芸である。

勧君金屈巵  コノサカズキを受ケテクレ  
満酌不須辞  ドウゾナミナミツガセテオクレ
花発多風雨  ハナニアラシノタトヘモアルゾ  
人生足別離  「サヨナラ」ダケガ人生ダ    

 晩唐の詩人 于武陵(うぶりょう)の五言絶句「勧酒」。書き下し文は「君に勧む金屈巵(きんくつし)/満酌辞するを須(もち)いず/花発いて風雨多し/人生別離足る」となる。漢文の授業でこの詩が出てきても、間違っても「サヨナラダケガ」なんて訳は出てこないなあと思う。
 「春眠暁を覚えず」で有名な孟浩然の「春暁」は次のようになる。「トリノナクネデ目ガサメマシタ」あたりが最高によい。このリズムは酔える。

春眠不覚暁  ハルノネザメノウツツデ聞ケバ
処処聞啼鳥  トリノナクネデ目ガサメマシタ
夜来風雨声  ヨルノアラシニ雨マジリ
花落知多少  散ツタ木ノ花イカホドバカリ


 井伏の日本語詩は、どこか不思議でひょうきんな印象がある。

「なだれ」
峯の雪が裂け
雪がなだれる
そのなだれに
熊が乗つてゐる
あぐらをかき
安閑と
莨をすふやうな恰好で
そこに一ぴき熊がゐる

 想像してみると非常に楽しい。東欧アニメーション映画にも似た、ユーモラスかつシュールな雰囲気がある。本書の中でも群を抜いて好きな一編だ。


 最初の寺山修二の歌に戻る。なぜ寺山は「さよならだけが人生なら 人生なんていりません」と言ったのだろう? 思うに、「サヨナラダケガ人生だ」という言葉にネガティブなイメージを読みとったからではないだろうか。しかし、井伏の詩集には、哀愁こそあるにしろ人生を嘆く雰囲気はあまりない。「勧酒」は、「人生は別ればかり。だからこそ今この酒を楽しもう」という歌である。寺山は、太宰のイメージにひきずられたのではないかと思う。
 「この世を楽しめ」と歌ったハイヤームの『ルバイヤート』と一緒に読みたい1冊。しかし私は酒飲みの詩人が好きだな。

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