『カンタベリー物語』ジェフリー・チョーサー
「この盗っ人やろう、わたしを殺しやがったな。わたしの地所をとろうと思ったんだろう。でも死ぬ前に、おまえと接吻したいものだ」——ジェフリー・チョーサー『カンタベリー物語』
中世英国バラエティ番組
いつの時代どの土地であっても、ゆかいな物語は人々の心を引き寄せるもの、そして見知らぬ人どうしの心をかよわせる潤滑油となる。
時は中世イングランド、カンタベリー大聖堂へお参りする30人の巡礼者たちが、旅の退屈をまぎらわせるためにそれぞれ自分が知る中でもっともゆかいな話を披露する。おもしろい話をした人にはごちそうを、つまらない話をした人は全員の旅費を負担するーー中世イングランド版バラエティ番組とでもいったところだ。
- 作者: チョーサー,金子賢治
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 1973/01
- メディア: 文庫
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この物語のおもしろさは、「中世英国の縮図」と呼ばれるその構成にある。30人の巡礼者たちの階級がひとつ残らず違うからだ。聖職者、托鉢僧、騎士、粉屋、貿易商人、地方の名士、学士など、裕福な上流階級から貧困な階級まで、30階級がよりどりみどり。そんな混沌としたるつぼ集団であるものだから、もちろん持ち寄る話の種類も雑多である。ある者は下ネタ話、ある者は正統派の騎士道物語、ある者は特定の職業を揶揄した失敗談、ある者は夫婦げんかと浮気の話ーー。
よくも悪くも、たいへんにおおらかだ。あなたたちは巡礼者ではないのか、と問いたくなるほど、皆が下品な話にきゃっきゃして喜んでいる。しつこく言いよる男に尻の穴にキスをさせるとか、寄進された屁を13等分するとか、浮気をするためにノアの洪水を予言するとか、すがすがしいほどにくだらない。
中でもふるっているのがバースの女房で、彼女は5度も結婚し、しかもすべての夫を完膚なきまでに尻にしく豪腕女房だ。彼女の演説は強烈で、すべての未婚男性を「絶対に結婚したくない」と震えあがらせた。
そういうわけで、わたしが自慢していいと思えるものがひとつあります。悪知恵か、力づくか、こごとを言うとか不平をならすとか、そんなものを武器にして、とどのつまり夫をまかしてしまうことですわ。とくにベッドのなかでは夫を叱りとばし、少しもおもしろいことはさせてやりませんでしたわ。夫がつぐないをするまでは、夫が腹に手をいれてきたら、すぐさまベッドから出たものです。わたしは夫になすべき義務をさせました。まず物を手にいれようとおもったら、それだけのことをしなくてはなりませんよ。
こうした雑多な人々をまとめるプロデューサーが「宿屋の主人」である。この好奇心に満ちた宿屋の主人は、この混沌とした集団が宿へ来たことをおもしろがり、「旅の途中で皆がふたつずつゆかいな話をして、誰の話が最高の出来か競い合おう」と提案し、みずからも巡礼の旅へ便乗するとまで言い出す。そして司会者として、あるいは旅人同士のけんかの仲裁人として、めざましい働きを見せる。
人類にとっての永遠のテーマ、男女仲の話については登場人物たちが大激論を交わす。男性陣は、若くかわいい従順な妻、もちろん浮気などは絶対にしない女を夢見て、女性陣は金と力を持ち、妻を女王のように扱う男を求める。ああ、この互いの希望の落差! 21世紀でも、わたしたちはまだ同じ話を繰り返している。
これを見ても妻は夫の助けとなり、夫の慰めとなるものです。言いかえれば、男はのためにこの世を極楽にさせて、男を面白く暮らさせるものです。妻たるものは夫に従い貞操を守るべきもの。また夫婦は仲よく暮らすのが人間の道だ。……夫の気に入ることはなんでも妻がよろこんで満足します.夫が「いい」と言えば妻はけっして「いや」とは言わない。反対に夫が「しろ」と言えば妻は「はい、すぐにします」と言います。結婚というものは尊くて善いものだ。
女というものには生まれながら六つの欲望があります。夫が強いこと、その二は賢いこと、その三は富めること、その四は気前のいいこと、その五は妻にやさしいこと、その六はベッドでは若々しいことです。
ほかにも、「肌の美しさといったら、ロンドン塔で鋳造されたばかりの金貨よりも美しい」(ロンドン塔は昔、造幣局として使われていた)とか、「彼女の口は甘く、さながら蜜とビールで作った飲み物か、乾草やヒースの中に貯蔵してあったリンゴのよう」といった、イングランド節が楽しい。「豚の目のようにかわいい」は、イングランド人にとっては褒め言葉であるらしい。絶妙なセンスである。
あっと驚くような超然的なエピソードやオチはない。彼らはどこまでも平凡だ、わたしたちと同じように。恋をした相手から褒めそやされたい、世間に認められたい、楽をしたい。そのためには嘘をつくし、だましもする。清濁併せ呑む登場人物たちにたいするチョーサーの目線は、皮肉めいてはいるがけっして冷淡ではなく、むしろ「しょうがないね」という嘆息まじりのおおらかさがある。じつにイギリス的であり、こうした風土がシェイクスピア喜劇をうんだのだと思うと感慨深い(シェイクスピアは『カンタベリー物語』のエピソードを劇作に使っている)。今も昔も変わらず、人間はくだらなくて馬鹿馬鹿しくていい。
Geoffrey Chaucer "The Canterbury Tales" ,1400?
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- ボッカチオ『デカメロン』……14世紀イタリアでうまれた、『カンタベリー物語』の原型。ペストから逃れるために邸宅に引きこもった男女が話をする。
- 『アーサー王物語』……騎士ガウェインの結婚は、本書にある「絶対に結婚したくない女」の話と同じエピソード。
カンタベリー大聖堂
7世紀に建設された、イングランドで最も人気である巡礼地。現在はイギリス国教会の総本山だが、イギリス国教会が成立する16世紀前はカトリックの教会で、重病が治るなどの奇跡で有名だった。堂々たるゴシック建築は、世界遺産として登録されている。グレート・ブリテン島の右下にあり、ロンドンからは1時間半ほどで行ける。
岩波文庫版『カンタベリー物語』
角川文庫版は抄訳。全訳は岩波文庫版で手に入るが、長い。しかし、全訳でも未完である。30人が行きと帰りに2つずつ物語を語るーーつまりは120の物語をチョーサーは考えていたが、ついに果たせぬままに鬼籍に入った。
- 作者: チョーサー,Geoffrey Chaucer,桝井迪夫
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