ボヘミアの海岸線

海外文学を読んで感想を書く

息も絶え絶えの圧倒的狂気|『眩暈』エリアス・カネッティ

 これほどの大金と、これほどの少量の理性とくれば、襲われて奪われるのが関の山。

 気狂いとはおのれのことしか考えぬ者の謂である。

——エリアス・カネッティ『眩暈』

頭脳なき世界

 圧倒的な狂気である。
 「眩暈」などという、そんな控えめな言葉では、とうていこの吐き気と狂乱を表現しつくせない。釘でガラスをキイィとひっかく怖気の走るあの音を、頭蓋骨の裏で絶え間なく奏でられているような感じと言えばいいだろうか。息も絶えだえで読み進め、数ページごとに手をとめて頭をかかえた。なぜ自分はこんなにきつい思いをしてまで本を読んでいるのだろうか、そもそもなぜ自分は読書をしているのかと、軽い錯乱に陥るほどの比類ない読書体験だった。なんなんだ、この本は。

眩暈(めまい)

眩暈(めまい)

 有能な東洋学者ペーター・キーンは、おのれの莫大な蔵書のみをこよなく愛し、人間とはできるかぎり関わらない生活を送っている。万巻の書物に埋もれ、孟子や孔子の言葉を暗誦するその姿は、隠遁した仙人を思わせる。巨大な書庫は“完成された世界”として閉じており、キーンは自分の世界で孤独に、しかし幸福に時を過ごしていた。しかし、すさまじい誤解の果てに、20歳も年上の家政婦テレーゼと結婚してしまったことにより、キーンの世界は決定的に破壊され、狂気への墜落、理性の潰走が始まる。
 世間知らずの学者が世間の波にもまれるといえば、思い出すのは『エペペ』だが、キーンも同様に悲しいほど滑稽な醜態をさらしている。以下は、身ひとつで狂気の鬼嫁テレーゼに追い出されたキーンの妄想だ。かわいそうに脳内に書庫があると信じこんでいるキーンは、毎日膨大な時間をかけて、本を脳髄から取り出してはせっせと部屋に並べて整理を行っている。

 「直ちに部屋から出て行ってもらえれば用は足ります!」とキーンは答えた。ドアに鍵をかけた。厚かましい人種は信用ならない。鍵穴に紙を詰め、塞いだ。そして書物の山の狭間に用心しいしい梯子を立てかけて上った。包にまとめてひとつひとつ系統立てて脳中から取り出して、やがて部屋じゅう一杯、天井まで積み上げた。壮大な重量を荷っていたにもかかわらず、梯子の上で平衡を失しない。自分が曲芸師さながらに見えた。

 『眩暈』を読むことは、テキストとの格闘だ。いや、格闘ではなく「たこ殴りにされる」と言った方が適切かもしれない。物語は間断なく妄想へと地滑りし、心の準備をする間も与えずに容赦なく狂気の沼に突き落としてくる。どうにか呼吸できる場所にまで浮上できたと思った瞬間には、後ろから鈍器で殴られて昏倒、といった感じで、まったく息をつくひまがない。


 本書で特筆すべきは、登場人物たちの徹底した非人間ぶりだろう。誰もかれもが、気持ち悪いほど自分のことしか考えていない。
 「テレーゼ、このあさましい女は私のために財産を譲渡しようとしている! よし、この金で本を買おう!」とキーンは考え、「キーンなんておいぼれと結婚したからには、やつの金はすべて私の財産よ! 誰にも渡さない! 私、きれいできちんとした主婦だもの!」とテレーゼ、「この年増女から徹底的にしぼりとってやるぜ。俺は出世すべきなんだ!」と家具商、「キーンのような世間知らずの気狂いが財産を持っているのはおかしい。これは全部おれに譲られるべきだ」とせむし男。
 皆が皆、自分の金欲と性欲、自己顕示欲を満たすためだけに思考のエンジンを全開にしていて、しかも全員のブレーキはとうに壊れているという末期ぶり。愛、友情、他者への興味、思いやり、親愛、優しさといった、いわゆる“人間らしさ”は、本書では徹底的に排除されている。もはや、彼らは本当に人間なのか? 思わずそう疑いたくなるほど人々はゲテモノさながらの醜態をさらしていて、読みすすめるたびに「人間はこうあるべき」という美しい幻想が足元から根こそぎ崩れ落ちていくよう。

 いやな女だ。四六時中、俺を愛していやがる。


 カネッティが描く「狂気」とは、正気の対概念としての狂気、病としてカテゴライズされた狂気ではない。正気の人/気狂いと、人間は二分できない。あまねく人は、心のうちに群衆=狂気をはらんでいると、本書は語っているように思える。
 「群集」という単語は、本書におけるキーワードのひとつだろう。帯に「権力と群衆」と書いてあったためか、最初は本書における「群集」とは「公衆」の反対概念、「啓蒙されていない一般大衆」という意味でとらえていた。
 だが、そうではない。この頭脳なき世界では、人は群れる利己的な虫けらだ。群集のルールに従い、気狂いは気狂いを呼び、狂気はざわざわ群れて雪だるま式に自己増幅する。
 青という色はこの世には存在しないし、すべての男は私のことを称賛する――人は自分が見たいようにしか他人を見ないし、都合のよい事実を切り貼りしては「これが世界の法則だ」とうそぶいて回る。愚かさは、いつの時代でも変わらない。本書がナチスの台頭とほぼ同時期に書かれたという事実は、なかなか考えさせられるものがある。


 あらゆる意味で、ここ数年で読んだ中ではだんとつでキツい小説だった。この圧倒的な存在感、比類ない精神的負荷を与えてくれたことに敬意を表して☆5つにした。「最近、驚愕する本に会えていない」「強烈な物語にぶちのめされたい」という人はぜひ挑戦されたし。

 いつの日か、その群衆は散乱をやめる、おそらくはある国においてだ、そこから野に広がる火のように蔓延し、ついにはだれ一人としてその存在を否めなくなるのであろう。そのときにはわれなれかれもなく、ただそれが、けだし群衆があるばかりなのだから。

Elias Canetti Die Blendung,1935.

recommend:
ボフミル・フラバル『わたしは英国王に給仕した』……チェコ。何も見ない、何も聞かない。と同時に「ありとあらゆるもの」を見なくてはならない。
ベーツァ・カネッティ『黄色い街』……エリアスの妻、ベーツァによる短編集。本書の原型とも言える作品らしい。
ヘルマン・ブロッホ『群衆の心理』……ドイツ作家による、ヒトラーに象徴される現代の群衆迷妄・狂気の精神状況の解明。