読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『リア王』ウィリアム・シェイクスピア

イギリス文学 ☆☆☆☆☆ シェイクスピア全集

[老いの盲目]
William Shalespeare King Lear, 1605.

これでは墓場にいるほうがまだましだろう。激しい風雨にその裸身をさらすよりは。人間とはこれだけのものにすぎぬのか?(第3幕第4場)


もっと落ちるかもしれん、「これがどん底」などといえるあいだはほんとうのどん底ではないのだ。(第4幕代1場)


人間、生まれてくるとき泣くのはな、この阿呆どもの舞台に引き出されたのが悲しいからだ。(第4幕第6場)


 老いて疑惑の盲にとりつかれ、狂気の果てに死んだ哀れな王の悲劇。最初から最後まで激情が渦を巻いて吹きすさぶ、すさまじい迫力を持つ作品である。
 娘3人の愛情を試そうとしたリア王は、欲深な姉2人の甘言に騙され、もっとも誠実だった末娘コーディーリアの無口に激怒して国から追放する。しかしリア王は姉2人から尊敬の欠片もない仕打ちを受けて、悲しみのあまりに錯乱の淵に陥る。嵐の中にリア王の狂気に満ちた絶叫が響き渡る。

ああ、ほんのわずかなあやまちが、コーディーリアに
認められたとき、なぜなんになまで醜く
見えたのだ!まるで拷問の道具のように、
わしの五体をかたわになるまでねじ曲げ、
わしの心をいっさいの愛情からもぎ話し、
憎悪にたたきこんだのだ。ああ、リア、リア、リア!

 

 「悲劇」はよく目にするが、これほどのバッドエンドはそうそうお目にかかれない。この劇には「愛を持つ人間」「愛が欠落した人間」、2種類の人間が登場するが、愛を持つ人間の心は誰1人届かず、みんな空の手のままに死んでしまう。リアもコーディーリアもエドガーもグロスターも、あと少しで心が届きそうだったのに、愛が伝えられそうだったのに、すべては嵐の中で潰えてしまった。

 老いることの悲しみや辛さを語った作家は多い。書かれたのは死への近さであり、力の弱さであり、経験からしかものを語ることができなくなる頑迷さであった。シェイクスピアはこの悲劇で、「老い」を「激しやすさ」と「盲目」によって描き出した。いきなり娘たちの愛情を試し、思い通りの答えが得られないからといって怒りだす唐突な始まり方は、『イリアス』の火を吐くような舌戦による開幕を思い起こさせる。
 確かにリア王は、耄碌したわがままプー爺さん(しかも権力を持っているから本当にろくなもんじゃない)だった。とはいえ、あそこまでの仕打ちを受けるほどだっただろうか? 子の愛情をはき違えた愚かさと、老人にありがちな短気の報いは、この世の全てを絶叫して呪う憤死だった。『オイディプス』もそうだが、行為と報いの天秤がまったく釣り合わないことは悲劇の要素のひとつであると思う。

 脇役たちも全員印象的だった。個人的にはグロスター伯爵と息子エドガーは、少しでも心を通わせてほしかった。あと少しで手が届きそうだったのに。そして阿呆がかわいかった(「おじさん、ちょっと落ち着きなよ」という、おそらく観客全員の思いを代弁してくれている)。姉姫2人の性格破綻ぶりもなかなかすごい。よくもまあこんな欲深に育ったものだと呆れ果てる。「子は親の鏡」というとおり、娘がこう育つ原因はリア王にあったのだろう。それでもリアには「子は親を大事にするだろう」と信じる素朴さがあったが、娘は恐ろしいほど現実的で冷酷で、愛に欠落していた。
 恐らく娘2人は父親を憎んでいたんだろう。そうなった背景について考える。おそらく血が近いからこそ、容易に切れる関係でないからこそ、激怒したり激しく憎んだりするのではないかと思う。自分の血縁を見ていても感じることだ。おそらく「誰が悪い、教育が悪い」とかの単純な問題ではなく、血がもたらす因縁というのは、確かに存在すると思うのだ。

 家族を愛したかったけれど愛し方を知らなかった人間は、みんな血縁に足をとらわれて、もれなく狂った。この結末を読んだあとで、遺作『テンペスト』を読むと良いかも。憎しみが生んだ破綻と悲しみが浄化される引き際の見事さは、ひどいバッドエンドである本書を読んだ後こそ感慨深い。


recommend:
ソポクレス『オイディプス』…全てを失った盲目の王。
中上健次『枯木灘』…煮えたぎる血縁。