『黒檀』リシャルト・カプシチンスキ
[無限の多様性]
Ryszard Kapuscinski HEBAN,1998.
- 作者:リシャルト・カプシチンスキ
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2010/08/11
- メディア: 単行本
一流の人類学者は、<アフリカ文化>や<アフリカ宗教>という言い方をけっしてしない。そんなものは実在せず、アフリカの本質とは、無限の多様性だと知っているからだ。 ――「氏族の構造 ガーナ編」
アフリカ文明の驚くべき特徴――暫定性、臨時性、そして物の継承性の欠如は、まさしくそこに根ざす。ついきのうできたばかりに急拵えの小屋が、きょうは跡形もなくなっている。……継承が皆無なのではない。ここの社会をまとめ上げ、活気づける継承力――それは、部族や儀式の伝統を保つこと、つまり、祖先崇拝の深い信仰として厳存する。それゆえ、物ないし土地の共通性を上回って、精神の共通性こそが、アフリカ人を身近な人々と結びつけるものなのだ。――「クマシへの道 ガーナ編」
私の『黒檀』は、実ににぎやかな色をしている。オレンジ色した表紙の上部には、青と黄緑色のふせん紙がびっしりついた。未知のことや驚嘆することがあった時、ページに目印をつけることにしている。それだけ、この本は驚くべきことが書いてあった。私はあまりにもアフリカを知らない。
カプシチンスキは、ポーランド人のジャーナリストである。第二次世界大戦以降からポーランドの新聞や通信社の特派員として、世界中を飛び回り、膨大な記録を残した。
『黒檀』は、第二次世界大戦以降のアフリカを40年かけてめぐった記録の集大成だ。アフリカの戦後50年には、本当にいろいろなことがあった。植民地からの脱却、つかのまの幸福、そして貧困。時間が経過するにつれて、描かれる光景や雰囲気が変わっていくのが生々しい。
伝染病にコブラ、クーデターに銃撃など、どう控えめに見積もっても10回は死ななければならないはずだが、カプシチンスキはそのすべてを映画のようにタフに生きのび、記録を書き続けた。まるで神が、彼をアフリカの希有な記録者として生かしておいたかのように。
本書に書かれている国を挙げてみよう。ガーナ、タンガニイカ、ウガンダ、ケニア、ザンジバル、ナイジェリア、モーリタニア、エチオピア、ルワンダ、スーダン、ソマリア、セネガル、リベリア、カメルーン、マリ、エリトリア。私を含め、西欧および西欧の影響を受けた先進国に住む人々の多くは、アフリカを「アフリカ」ととらえているのではないだろうか。そのくくりはひどく漠然としていて、詳細な書き込みはほとんどない(実際、「キリキリソテー」も「アフリカ文学」とまとめてしまっている)。
だが、カプさんの文章を読んでいると、そのとらえ方がいかに適当で不作法なものであるかが分かる。「アフリカの本質とは無限の多様性」、本書を読み進めるたびに、その言葉が胸に刺さる。アフリカに住む無限の部族とものの見方、そしてこれらの無限を生みだしたアフリカの灼熱と大地。この土地では、生活様式では、世界観では、自然では、およそ西欧のような文化や考え方は生まれも広がりもしないだろう。アフリカ大陸そのものが、あまりにもユーラシア的なものと異なっていて(対極と言ってもいい)、だからこそ今のアフリカの悲惨がある。
例えば、アフリカではどの部族に属しているかが最も重要だという。初対面の人が挨拶する際は、お互いにどの部族であるかを確認し合う。つながりのある部族であればたちまち友好的になり、敵同士であれば逆の態度をとる。彼らは「個人」ではなく「部族の一員」として人間を認識する。
それは、西欧的な個人主義、民主主義とは全然異なる価値観だ。さらに、部族のエリアを無視した無粋な直線の国境が、話をさらにややこしくしている。西欧の政治体制をアフリカに持ちこんだところで、うまくいくわけがない。アフリカの政治問題を、カプシチンスキは淡々とえぐり出す。
それから、時間についての考え方。西欧では時計がチクタクと時を刻むように、時間は一定の速度で流れるものと考える。だが、アフリカではそうではない。時間のとらえ方ははるかにゆるやかで主観的だ。「このバスはいつ発車しますか?」という質問に、彼らは「そりゃ、人が満員になってからさ」と答える。西欧では人が時間に合わせて動くが、アフリカでは時間が人に合わせてその形を変える。
ここアフリカでは、政治的な異変――クーデター、軍部の反乱、革命、戦乱――を自然現象として受け取るのが、庶民の態度である。
暴風雨に対するのと同じ、冷やかな諦観と運命論で、それらに接する。どうにもなりはしない。止むまでやり過ごす。――「ザンジバル ケニア/タンガニイカ/ザンジバル編」
「自然現象として受け止めてやり過ごす」、この文章からトーマス・マン『魔の山』を思い出した。両者を見ると、西欧とアフリカがいかに真っ向正反対をいく考え方をしているかが浮き彫りになる。『魔の山』に登場する人文学者セテムブリーニは「大地震に抗議し、屈服を認めない、それこそが西欧の態度である」と言った。そして。「西欧人であることは“批判”することである」とも。カプシチンスキも、同様の考察を行っている。
ヨーロッパの文化が他の文化と違うところは、批判能力、なかでも自己を批判的にみる能力がある点だという話である。……概して、他の文化にはこの批判精神はない。あらゆる悪いことは、自分たち以外のもののせいにする。自分たちへの苦言はすべて、悪意ある攻撃や偏見や人種差別だと見なす。こうした文化の代表者たちは、批判されると、それを個人への侮辱であり愚弄でありいたぶりでさえあるとして、憤慨する。……結果、彼らは、恒常的・構造的な文化上の特性として、進歩する能力に欠け、自らの内に変化と発展への意思を創り出す力を持たない。――「闇の中で立ちあがる エチオピア編」
進歩! これこそ熱烈な人文主義者が、ハンス・カストルプ青年に熱烈に説いたことだった*1。
これらの考え方の差異を、人種差別にならないよう注意を払ってカプシンスキが書いている点は注目に値する。あくまでこれは文化風土の問題であり、肌の色の問題ではないと。アフリカに味方するでもなく、西欧風を吹かすでもなく(彼がヨーロッパの中でも虐げられたポーランド生まれということと無関係ではないかもしれない)淡々と叙述する。そこがいい。
他、鬼気せまる灼熱と絶望的な闇の深さに関する描写(「コブラの心臓 タンガニイカ/ウガンダ編」)、『007』も「これはやりすぎじゃ」とたじろぐであろう密入国のぶっ飛びドタバタ劇(「ザンジバル ケニア/タンガニイカ/ザンジバル編」)、まさにアフリカン・マジック全開な呪術具の恐るべき効能(「ぼくの横町、1967年 ナイジェリア編」)、ルワンダ大虐殺についての非常に分かりやすい解説(「ルワンダ講義 ルワンダ編」)、ヨーロッパの心の貧しさ(「闇の中で立ち上がる エチオピア編」)、「自由の国」という名とはほど遠いリベリアの人種差別の救いがたい闇(「冷たき地獄 リベリア編」)など、アフリカン・マジックやアフリカの政治問題、人との愉快で驚きに満ちた交流が描かれる。
ここにはわたしの知らない世界がある。そしてそれは、わたしがとりつかれたように本を読み続ける理由のひとつなのだ。どれも外れなしに愉悦した。傑作。
recommend:
レドモンド・オハンロン『コンゴ・ジャーニー』……コンゴで大暴れする、フィクションじみたノンフィクション。
トーマス・マン『魔の山』……伝統的なヨーロッパの考え方。
ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』……文明の発達についての考察。
*1:トーマス・マン『魔の山』