キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『ボディ・アーティスト』ドン・デリーロ

 計画を立てることで、時間を組織化する、自分が再び生きられるようになるまで。——ドン・デリーロ『ボディ・アーティスト』

放心と回復

 時々、まっ白い部屋にひとり立ちつくしているような感覚に陥ることがある。心と体がうまくつながっていない状態、自身のバランスが取れず途方に暮れている状態とでも言えばいいだろうか。おそらく人はこれを放心と呼ぶのだろうが、私にとっての放心は、陽光が反射する白い部屋、大きい窓、冷たい水の入ったガラスのコップ、北欧のイメージと分かちがたく結びついている。

 なぜこのイメージなのかは知らない。かつての恋人がこういう空気の中に生きていた人間だったからかもしれないし、別にぜんぜん関係ないかもしれない。どちらにせよ、この錯覚はとても個人的なものだと思っていたから、本書に出会った時には驚いた。

ボディ・アーティスト (ちくま文庫)

ボディ・アーティスト (ちくま文庫)

ボディ・アーティスト

ボディ・アーティスト

 体と心がばらばらになってしまったひとりの女性が、白昼夢のような青年と出会い、再生するまでの短い物語である。

 彼女、あなたと呼ばれるローレンは、ボディ・アーティストだ。彼女は体を使い、自分とは違うさまざまな種類の人になりきって「人間」を表現する。だが、最初の数ページを読んですぐ気づくように、ローレンはどこかぎこちない。夫レイとの会話はかみ合わず、動きはマリオネットのようで、まったくボディ・アーティストらしからぬ仕草である。このアンバランスさは、夫が前妻のアパートでピストル自殺したことによって、耐えがたいほどに加速する。

 大豆の匂いは体臭とどことなく似ている。

 最初の頃、彼女はとんでもない貝を食べてしまい、その後の数時間をトイレに行ったり来たりしてすごした。しかし、少なくともこれで身体を取り戻した。下痢便ほど効果的なものはない、と彼女は考えた、精神と身体をひとつにするためには。

 心と体のバランスを欠いている時ほど、五感が研ぎ澄まされるものだ。耳、目、鼻、皮膚、口から入ってくる情報をうまく処理しきれないから、なんでもない日常にいちいち驚いてしまう。長年食べているはずのシリアルのパッケージデザインをはじめて見たように感じたり、電話音の耳障りさに辟易したり、人肌の暖かさに呆然としたり。これら五感にまつわる描写は時に恐ろしいほど的確で、デリーロの手腕にうならざるをえない。

 ドン・デリーロは、ひたすら忠実に、職人技のような手さばきでもって感覚に迫ってくる。ローレンが、フィンランドにある小さな町の道路の映像をひたすら眺めるシーンも同様だ。理由も根拠もない。だが、なぜか「こういうことをしたくなる」ということを、私は皮膚の裏側で知っている。

 「ここにいるということが私に来た。私はその瞬間とともにいる。その瞬間を立ち去る。椅子、テーブル、壁、廊下、すべてが瞬間のためにあり、瞬間の中にある。それが私に来た。ここで、近くで。その瞬間から私は消え去り、取り残され、そして取り残していく。私はその瞬間からその瞬間を立ち去る」

 日常からずれこんだボディ・アーティストの感覚は、世界そのものからずれた不思議な青年の登場によって、だんだん変わってゆく。2人の間には共感などないし、傷のなめ合いもない。しかし、過去から動けない女と過去を持たない青年は、かみ合わない会話をとおして、確かに何かを交換していった。


 タイトルどおり、とても「身体的」な物語だった。救いだとか再生だとか癒しだとか、そんなチープな言葉でわりきれる話ではぜんぜんないが、感覚に訴えてくる描写と研ぎ澄まされた文章の美しさのためか、霧の中で深呼吸したような読後感があった。私自身が3月11日以降、体と心がうまくつながらず途方に暮れていたところだったから、この本を手に取れたことは得がたい偶然の幸福だ。

 地味だし、読む人によっては「意味がわからない」と切り捨ててもおかしくない話だが、私にとってはいろいろな意味で特別な1冊。人間、放心は必要だ。そして、休むことも。


ドン・デリーロの著作レビュー:
『マオII』

Don DeLillo The Body Artist,2001.

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