『クララからの手紙』トーベ・ヤンソン
成績表なんて気にしないこと。パパとママに言いなさい。両の手を使って美しいものを造るというのは、場合によってははるかに大切な能力なのだと。——トーベ・ヤンソン『クララからの手紙』
気難しくも優し
他者のために己の心を殺すことは、優しさではない。優しくありたいという願いは嫌われたくないの裏返しで、たとえそれが愛ゆえの、悲哀さえ帯びた切実な願いであったとしても、自分が殺した言葉と感情は砕けた硝子のように足裏を刺し、やがては受けた傷への対価を期待する。あなたのためにがんばった、あなたのためにがまんした、あなたによかれと思って、なのにどうして。言えなかった言葉は心に沼をつくり、その水は時が経つほど澱み、やがて水底に怪物をはらむ。
トーベ・ヤンソンの作品に出てくる人びとは、沼の怪物とは無縁の人びとだ。彼らは気難しく、ささいなことで気分が変わり、文句でもなんでも言いたいことは遠慮なく言い、自分の心を隠さない。
それがふしぎと心地よい。彼らは彼らなりに家族や友人を大事に思い、同じだけ自分の心を大事にしている。自分にも他者にも寛容なのだ。だからわたしは、この気ままで身勝手な人たちの物語を読み続けたくなる。
- 作者: トーベヤンソン,Tove Jansson,冨原眞弓
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1996/06/21
- メディア: 単行本
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本書は、トーベ・ヤンソン全集のなかではもっとも晩年の短編集である。80を過ぎたトーベが見る世界には、死と老いの色彩がいっそう強まっている。
「クララへの手紙」ではクララおばあさんがさまざまな人にあてて手紙を書き、若い人には言葉を、古い友人には懐かしみのこもった言葉をよこす。「パーティ・ゲーム」では40年ぶりに顔をあわせた級友たちのぎこちなさと気まずさ、そしてそのあいだにかすかに見える親愛が描かれる。
「リヴィエラへの旅」は、気難しい老母と娘がスペインに旅する話。彼女たちはやっぱり文句を言い合っているが、やはり親子だからか通じ合っていて、ふたりの大きな少女が遊んでいるようでいい。
「睡蓮の沼」では、若い世代と老いた世代のあいだに不協和音が響く。若いカップルの旅行にどうどうと割りこむ老いた母親は無遠慮で、息子は母親に振り回されている。そしてその様子を白々と眺めている女性の諦めともつかぬ静かさ。こういう年のとり方はしたくない。
一方、「海賊ラム」に登場するマリとヨンナの年のとり方はすてきだ。彼女たちの物語『フェアプレイ』はわたしが偏愛する1冊なので、ひさしぶりにふたりが出てきてうれしくなった。あいかわらず会話はかみあったりかみあわなかったりするが、女に辟易している漂流者をひろった時のふたりは、やはりいい相棒どうしだと思う。
「あいつらは人を所有しようとする。愛で殺してしまうんだ」
「そうね。わかる」とマリが言う。
「わかるもんか! なんであいつら気持よくできないんだ、会うのが楽しいように、すこし距離を置くってことをさ」
ちょっと偏屈で誇り高く、自分の言いたいことははっきり言うが、奇妙な優しさがある。年をとるなら、こうありたい。
もっとも気に入ったのは、「夏について」。トーベの描く人物たちの中でも、とくに少女の野性味あふれる感性はすばらしい。大人も学校もさっぱり知らないといった風情で、誇り高くひとり遊びに打ちこむ彼女(きっと少女とは呼ばれたくないだろう)を眺めていたい。
ボートをこぐ練習をする。練習するところを見られたくないので、毎朝みんなより先に起きる。かしこく、しかもいちずでなければならない。
浮世ばなれした少女と彼女に惹かれる中年男を描いた「エンメリーナ」もよい。エンメリーナは若くして屋敷を受け継いだ少女で、この世に生きていないような、感情が欠落しているのではないかと思わせる、月のような引力がある。あなたにそのドレスは似合わないとお世辞を拒否し、生きていけないインコの首をためらいもなくひねる。仕事がいやで鬱々としている中年男のダヴィドは、エンメリーナに言いようもなく惹かれ、やがて死にたいという思いを加速させていく。死の静寂に近い少女の引力と、それに引きずられる男が織りなす緊迫感は、ほかの短編では見られない。
トーベの作品には生きることへの強い誇りがあるが、理想や規範はないように見える。彼らは彼らの思うように話し、行動する。その結果がどうなるかはわからない。最後の一文まで読んでもまだわからないことだって少なくない。
皆が気ままで、人と人は衝突するが、その衝突で風穴があくこともある。気を使いすぎて疲れているあの子に、この本をわたしたくなった。
収録作品(気に入った作品には*)
- クララからの手紙*
- ルゥベルト*
- 八月に
- 睡蓮の沼
- 汽車の旅
- パーティ・ゲーム
- 海賊ラム*
- 夏について***
- 絵*
- 事前警告について
- エンメリーナ**
- カリン、わが友*
- リヴィエラへの旅*
Tove Marika Jansson"Brev från Klara och andra berättelser",1991.
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