ボヘミアの海岸線

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『厳重に監視された列車』ボフミル・フラバル

 じいさんは真向からひるまず戦車に向って進んで行き、両手を一杯に延ばし、両の眼でドイツ兵たちに念力を注ぎ込んでいた……「ぐるっとまわって帰っていけ……」すると本当に先頭の戦車が停止し、全軍団がその場に立往生した、じいさんは先頭の戦車に指をふれ、絶えず同じ念力を送りつづけた……「ぐるっとまわって帰っていけ、ぐるっとまわって帰っていけ……」だがしばらくすると、先頭車の中尉が小旗を振って指示を下し、戦車が進み始めたが、じいさんはそれを避けようともせず、戦車はじいさんを轢き、その頭をキャタピラーに挟み込んだまま進んでいった、それからもはやナチス帝国の軍団の歩みを遮るものはなかったのである。——ボフミル・フラバル『厳重に監視された列車』

男になる

 愉快に深刻なことを吐き出す語り口、望み薄のときこそひときわ高くなる哄笑、第二次世界大戦下のチェコスロヴァキアという舞台、なにかしらの不具を抱える主人公。これらの特徴を兼ね備えた本作『厳重に監視された列車』は、まちがいなくボフミル・フラバルの作品だ。しかし、だからこそ思う、フラバル作品の中ではバッド・エンドだと。

厳重に監視された列車 (フラバル・コレクション)

厳重に監視された列車 (フラバル・コレクション)

 ミロシュ・フルマはナチス占領下のチェコスロヴァキアで働く、若き鉄道員である。鳩を飼育することに情熱を燃やす駅長、美しい駅長室、石炭の輸送列車に病院列車、ナチスの厳戒兵員輸送列車、信号機と通信機が彼の日常だった。
 フラバル作品の主人公は美しい人や健全な人をうらやむ何かしらのコンプレックスをかかえているが(ハニチャは家族も恋人もいない廃棄物まみれの孤独、ヤン・ジーチェは背丈の低さ)、ミロシュ青年の場合は勃起不全であった。はじめての恋人で童貞喪失する直前になって「百合の花のように萎えてしまった」(なんというフラバルらしい表現!)ことを恥じ、ミロシュは鬱々としながら戦争とナチスの美しいSS将校を見つめている。
 一方、ミロシュと対照的なのが操車員のズデンカだ。彼は夜勤の真っ最中、電信嬢の尻に駅のスタンプを押しまくったことがばれて問題になっていたが、彼は牛のように悠々としている。この安定ぶりに、不安定な青年はあこがれたのだろう。青年はズデンカ操車員が見つめる空にをともに眺める。そこに浮かぶのは電信嬢の尻、その青く澄みわたる尻に、スタンプの幻がぺた、ぺたと増えていく……。

 「あそこを行くのはわれわれの希望だ。われわれの若者だ。自由なヨーロッパのために戦うのだ。それなのに、ここにいるきみらは何だ? 電信嬢の尻に公印を押すなんて!」


 じいさんのおぞましい最期を滑稽に語り、山烏が大量に死んでいるさまを「熟れすぎたボスニアのプラム」に例え、フラバルはあいかわらず豊かな表現を駆使して饒舌に戦争を語るが、本書の核となるのは、勃起不全に悩むミロシュ青年の心の叫びである。
 「ぼくは男なんだ、ぼくは――」

 最初の勃起がうまくいかなかった人は、その後の勃起いかんにかかわらず、精神的な不能になる、というような文章をどこかで読んだ記憶がある。この言葉の是非はともかく、戦争で戦わないことと勃起不全には共通するものがあるように思う。「兵士に殺人を教えることは、セックスを学ぶ童貞の世界」*1というように、童貞喪失と殺人は未知の世界への強烈なダイブであり、だからこそ古来から人々は通過儀礼という形で「大人の男」になる道をあらかじめ用意していたのだろう。ヘミングウェイの『日はまた昇る』は「男になりきれなかったこと」の悲哀を、大戦で性器をなくした男に語らせている。前線で戦いきれなかった後ろめたさと、不能であることのみじめさは分ちがたく混じり合い、肥大した自意識となっておのれを責めさいなむ。

 「わからないようなふりをしないで下さい。ぼくは教えて貰いに来たんですから………………要するにぼくはずっと男なんだけど、ぼくが男だということを示さなきゃならない時に、男でなくなっちゃうんです。物の本によれば、ぼくは”早漏”なんです、わかりますか?」」
「そんなことわからないわ」駅長の奥さんはそう言って、再び餌を水に浸した。

「でもわかってるでしょう」ぼくは言った――「それで今、ぼくは真剣に考えてるんです……そう、どうか……ぼくは今、男なんです……さわってみて下さい」

 「ああマリア様」駅長の奥さんは小声で言った。「わたしはね、ミロシュさん、もう更年期になってるの……」

 このメロドラマティックな展開に、“更年期”という単語をぶちこんでくるのは、さすがフラバルだと思う。
 男になる、このマッシブな原初の宗教は、多くの若者が青春時代に抱え、あとから思いかえせば憤死するほどの自意識過剰とともに夢精して果て、やがて忘れゆくものだが、戦時下ではそう簡単にはことは終わらない。いったいどれほど多くの若い兵士が、射精をのぞむようにせききって、銃身をそり立たせながら、おのれの脳髄の白濁を地面に流したことだろうか。
 フラバルの愛すべき主人公たちは、どんなに男らしくなかろうと、美貌も資産も名誉もなかろうと、考えることをやめなかった。心ならず教養を身につけてしまった彼らは、どんな悲惨な環境にあっても、ユーモアを忘れず、目をそらさずに世界の狂態を目撃しつづけた。
 この知性こそが、フラバルの魅力なのだと思い知る。だから他の人がどう読もうと、わたしにとって本書はバッド・エンドだ。フラバルの語り口で「男になる」ことへの違和感がぬぐえない。家畜の不遇に涙していたミロシュ青年、青空に尻の幻影を描いていたミロシュ青年を、わたしは愛していたのだった。

 

ボフミル・フラバルの著作レビュー

Bohumil Hrabal "Ostre sledovane vlaky",1966.

recommend

*1:デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』筑摩書房、2004年。