ボヘミアの海岸線

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『遠い水平線』アントニオ・タブッキ

 「どうして、彼のことを知りたいのですか」
 「むこうは死んだのに、こっちは生きてるからです」

——アントニオ・タブッキ『遠い水平線』

目の中に水平線

 見知らぬ人が死んでいる。今もどこかで、近くの路地で、遠い部屋の片隅で。だが、死はふだんの生活からは切り離されていて、なかなかそのことに気づかない。生活の力はあまりに強く、死の影を容赦なくぬぐいさるからだ。
 ところが、ときどき死の引力に惹かれる人間がいる。『遠い水平線』の主人公、スピーノもそのひとりだ。彼は死体置場の番人で、他の人たちよりは死者に近い場所にいる。死者たちを「もの」として扱うことに抵抗をおぼえ、「ウンラット教授」といったユニークなあだ名をつけるなど、死者たちに親近感に近い同情を寄せている。
 だが、死者はあくまで死者、スピーノは生ける者であり、両者のあいだには越えられない溝があった。だが、死体置場に身元不明の青年の死体が送られてきたことによって、状況は一変する。スピーノは青年の身元を確認するために手をつくし、さまざまな手がかりを得ようとして深く死者の人生に足を踏み入れていく。そのいれこみぶりは周囲の人間がとまどうほど。
 「このままでは、犬死にになってしまう。二度死なせるのと同然だ」とスピーノは言う。スピーノと親しい新聞記者は彼にたずねる。「いったい、きみは何が知りたいんだ?」

遠い水平線 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

遠い水平線 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

 そう、私もそれが知りたかった。見知らぬ死者のために、なぜそこまでするのか、その熱情はどこからくるのか。しかし、その核心については触れられないまま、物語は進む。スピーノはするりと路地裏に迷いこむ猫に似て、行き先がわからず、どこで曲がるのかも予測できないから、途方に暮れながらもひたすら追いかけるしかない。
 ノーボディ(名なしの死者)を知る人々のエピソードはそれぞれ独立した掌編のようなおもしろさがあるが、これらをつなげていくと、世界がどんどん異様な相をおびていく。薬のびんの処方や墓碑に手がかりが隠されていて、水平線をわたるカモメが会話を盗み聞いている(どんなものでも手がかりとして読めてしまうのは、『競売ナンバー49の叫び』『コスモス』を思わせる)。

 「ここでは言えない。カモメが聞いているから。あいつはスパイかもしれない」


 『レクイエム』を読んだ時にも感じたことだが、タブッキが描く死には、においがない。腐敗や血といった物理的な“死”とは無縁な、もっと静かで象徴的なもの——死は「誰かの不在」である。
 だからスピーノは探すのかもしれない。ときどき死者の記憶を思い出し、此岸と彼岸の境界をあいまいにしながら「不在の人」を求めるのは、不在の穴を埋めて忘れさせようとする“生きている世界”から、死者をすこしでも守りたかったからなのだろうか。ここには、死にたいするあこがれとともに、恐れがあるように思う。いつか自分も人知れず死んでしまうのではないか、誰からも忘れられていくのではないかという恐れが。

 そのとき彼は、どんなものごとも、いずれは解決に至る力をもっていること、そしてわれわれがどれほど、他人のうちに自分を見てしまうかについて、考えた。

 スピーノはどこまでも深刻なのだが、それゆえにおかしみを生む。それはたとえば、恋の熱情からふと冷める瞬間にも似ている。なにかがきっかけで目がさめて、これまでの自分を「なんて滑稽な」と笑うように。だから読後感はひどく象徴的で暗喩的でありながら、風が吹き抜けた後のような余韻を残す。


 静かで、奇妙で、謎めいている。それでいて美しい。イタリアの夕暮れ、歩くすきまから見える水平線、<風の吹抜ける小路>、丘の上を走る「エレベータ」などのこまやかな情景描写はさすがタブッキとうなる筆致である。

 強風に、紙片は旗のようにはためき、暮れなずんだ空気のなかで、光の染みになって、乾いた音をたてた。

 水平線は、目にうつすことはできてもけっしてたどりつけない境界だ。水平線を目に持つ男は、最後に何を見たのだろうか?

 彼は思った。ものにはそれ自体の秩序があって、偶然に起こることなど、なにもない。では、偶然とは、いったいなにか。ほかでもない、それは、存在するものたちを、目に見えないところで繋げている真の関係を、われわれが、見つけ得ないでいることなのだ。


アントニオ・タブッキの著作レビュー:

Antonio Tabucchi Il filo dell'orizzonte,1986.

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