ボヘミアの海岸線

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『わが町』ソーントン・ワイルダー

[平凡な日々]
Thornton Wilder Owr Town,1938.

ソーントン・ワイルダー〈1〉わが町 (ハヤカワ演劇文庫)

ソーントン・ワイルダー〈1〉わが町 (ハヤカワ演劇文庫)

レベッカ:……牧師さんから手紙が来たんだって。その封筒に書いてある宛名がさ、こうなのよ。ジェーン・クロファットさま、クロファット農場、グローヴァーズ・コーナーズ街、サトン郡、ニューハンプシャー州、アメリカ合衆国。
ジョージ:どこがおかしいんだい?
レベッカ:聞いてなさい、まだあるんだから。アメリカ合衆国、北アメリカ大陸、西半球、地球、太陽系、宇宙、神のみ心――そう書いてあったのよ、封筒に。
ジョージ:へええ!


 老若男女とわずこれまで私が好きだなあと思った人はみんな「人は死ぬよ」と声に出して言った人である気がする。これまでいろいろな人と話をしてきたけれど、日常会話の中に「死」という単語を混ぜ込める人は少ない。大概の人は、気がついていないふりをする(まれに、本当に気がついていない人もいる)。
 この言葉を口にするにはエネルギーがいる。日常的に死のことを考えていないと、なかなか暗黙のルールを乗り越えられない。自分がその手の人間であるせいか、「人は死ぬ」と言う人には無条件に興味を抱く。 



 『わが町』を読んだのは実に7年ぶり、大学で受講した英語の授業以来だ。教師の独断と偏愛によってシェイクスピアやらバイロンやらポーやらを読み倒す授業だった。担当の教師はこよなくシェイクスピアを愛する人で、「私の授業は変ですから、引き返すなら今です」と初日にかっとばし、善良な大学生たちを驚かせた。


 写真のぼろっちい本は、私が1年かけて読みこんだ英語版のテキストだ。「ジョージが歯の浮くセリフを連発。エミリーもまんざらではなさそうだ」「私はジョージを誤解していた」などの書きこみがあって、なかなか笑える。

 当時は「なぜ、こんな普通のものを読ませるのだろう」と疑問だった。併読していたシェイクスピアの方がずっとおもしろいのになあ、とも。私は、彼が意図するところまでは考えようとしなかった。


 本当に普通の話なのである。「グローヴァーズ・コーナーズ」では、特別なことは何も起こらない。人は青春時代を過ごし、恋愛をし、そして死ぬ。時々「舞台監督」と名乗る人物が舞台にちゃちゃを入れたり、死者が登場したりするが、基本的にはどこにでもある「日常」ばかりが続く。
 だが、特筆するに値しない「ただの日常」こそが記録するに値する、とこの劇はうたっている。「私はこの劇の脚本を一部、千年先の人々のために埋めておこうと思う」と、舞台監督は語る。私たちはバビロン時代について、歴代の王や契約書、掘り起こされた遺跡の数々からしか知ることができない。だが、その場所とその空間には確かに、何百万もの「特筆に値しない普通の生活」があったのた。
 そう、『わが町』は千年先に向けたタイムカプセルであり、これまで何千年も積み重なってきた「人類の記憶」である。


 この劇は「20世紀、アメリカの片田舎、どこにでもある平凡な町」という、“極小の一点”を舞台にしている。だが、この極小の一点は、世界や宇宙に通じるホワイトホールのようなものだ。冒頭部分に引用した「手紙の住所」の一節は、一点から世界へとつながる『わが町』の視点をよく表していると思う。

 最終の3幕で、死者の仲間入りをしたエミリーは慟哭する。

 全然分からなかったわ。あんなふうに時が過ぎていくのに、あたしたち気がつかなかったのね。さあ、連れて帰ってください――丘の上へ――あたしのお墓へ。でもその前に、待って!
 もうひと目だけ。
 さよなら、世のなかよ、さようなら。……ああ、この地上の世界って、あんまりすばらしすぎて、誰からも理解してもらえないのね。


 先生がシェイクスピアや『わが町』を通して伝えたかったのは、「今を生きろ、死を思え」という一言に尽きる気がする。7年越しに、できの悪い生徒はそんなことを考える。だがしかし、私が愛する本たちをよくよく見返してみれば、すべての根っこにはこの一言があった。
 「人は死ぬものです。多くの人が忘れていることですが」。先生の一言を思い出した。久しぶりに手紙でも出してみようかと思った。


recommend:
シェイクスピア『夏の夜の夢』…地球はひとつの劇場である。
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