『ヴォイツェク・ダントンの死・レンツ』ゲオルグ・ビューヒナー
彼には、天に向かって握りしめた巨大な拳を突き出して神を引きずりだし、雲の中を引きずり回してやれそうな気がしてきた。世界を歯で噛み砕いて、創造主の顔に吐きつけてやれそうな気がした。
−−ゲオルグ・ビューヒナー『ヴォイツェク・ダントンの死・レンツ』「レンツ」
「おい、ヴォイツェク、まるで抜き身の剃刀みたいにこの世を走り回っているじゃないか、お前とすれ違ったら、すぱりと切られちまう」(「ヴォイツェク」より)
自然に溶ける
ドイツでもっとも権威のある文学賞の名は「ゲオルグ・ビューヒナー賞」という。ケストナー、ツェラン、ベルンハルト、カネッティ、ミュラー、イェリネク、受賞者には錚々たるメンバーが名を連ねている。
ビューヒナーは医学を専攻した自然科学者で、いくつかの作品を残し23歳で夭折した。私の年齢の時には、彼はすでにこの世にいなかったという事実にびっくりしてしまう。彼の観察眼は、まるで黒い森の切り株のように老成しているから。
- 作者: ビューヒナー,Georg B¨uchner,岩淵達治
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2006/10/17
- メディア: 文庫
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「レンツ」は、実在した作家をモデルにした未完の小説。人の群れを嫌い、人里離れた山奥に逃れる狂気の作家を描き出している。
「狂人」がなぜ突発的な奇行に走るのかを知りたいなら、とりあえず「レンツ」を読むといい。レンツはいきなり精神不安定になって池に飛び込んだり、会話の合間にぶち切れたりする。「名状しがたい不安」「もう自分自身が見つけられない」「一切が闇で無」――そんな感情がレンツの心を支配する。
人の中にあっては激情うねるレンツも、大自然を前にした時は心の平安を手に入れる。深い山の中でただ1人、レンツは立ちすくみ、世界と自己を融解させていく。「静かな激情」という言葉が似合う一作。
「ヴォイツェク」も狂人を描いた戯曲だ。こちらは、嫉妬のあまり殺人の衝動に駆りたてられた髭剃り師が主人公。レンツ同様、実在の人物をモデルにしている。情婦マリーが浮気をしていることを知り、ヴォイツェクは精神錯乱に陥った。彼は誰もいない荒野で、「刺し殺せ」という声を聞いたと絶叫する。
何だ、何て言っているんだ? もっと大きな声で、大きな声で頼む、――刺し殺せ、刺し殺せ、刺し殺せだって、あの牝狼を刺し殺せ。俺にやれっていうのか? この俺じゃなきゃいけないのか? あそこにも聞こえるが、あれは風が言っているのかな? まだ聞こえてくる。いつまでも続けて、刺し殺せ、刺し殺せ、と。
冒頭で紹介したように、ビューヒナーは自然科学者であり医学者だった。狂人の心を、彼は解剖する。だが、彼の文章はメスさばきをあまり感じさせない。だからこそびっくりする。トルストイ『イワン・イリイチの死』を読んだ時にも思ったが、狂った経験が(たぶん)ないのに、これだけの描写ができるというのは驚嘆すべきことである。未完作品ならではの不思議な余韻が残る。
「ダントンの死」は、フランス革命後に処刑された男の戯曲。これだけ、上記2つとは少し雰囲気が違う。ロベスピエールに目をつけられたダントンが、いかに抗議して断頭台の露と消えたか。これはわりと普通だった。最後の終わり方を見ると、あの時代は生け贄を求めては食らい続けた時代だったのだと思う。
ついでに、訳注がやたら多いことにも触れておこう。ビューヒナー作品はいろいろ論議を呼ぶものらしく、どこかの大学が作ったビューヒナー大全は本文より注の方が多かったらしい。さすがに本書はそこまでではないが、比較的注が豊富。私はずぼらなので全部は読みこまなかったが、背景や文脈もろもろが気になる人は読んでみるとおもしろい、のかも。
recommend:
魯迅『狂人日記』…狂人が日記を書いた(更生したというけれど、それは嘘だろう)
ランドルフィ『カフカの父親』…狂人の心を内側から覗く。
トルストイ『イワン・イリイチの死』…作者は一度死んだのでは、と疑いたくなるくらいリアルな死者の心情。
Karl Georg Buchner Woyzeck Dantons / Tod / Lenz ,1835.